“おはよう”の効用

 “おはよう”の効用

  

 先日、あるベンチャー企業の経営者がぼやいていました。

「朝、おはようって言っても、誰も何も言わないんだ。そのことで注意したら、挨拶より仕事で結果を出すほうが大事とか言うんだよ、うちの社員は。まあ、そういうのに限って、結果は出てないけどね。」

 そのお話を伺っていて、たまたま久しぶりに観た、ある映画のことを思い出しました。

 

 ご存知の方も多いと思いますが、小津安二郎監督の「お早よう」(1959年公開)という作品です。

 作品自体の紹介や解説は、映画に関するウェブサイト(注1)をご覧いただくとして、ここでは、挨拶のように一見、無駄に思えるコミュニケーションがどのような役割を果たしているのか、この映画を材料にちょっと考えてみたいと思います。

 

主人公の子供たち(中学生と小学校低学年くらいの兄弟を演じるのは設楽幸嗣と嶋津雅彦)にとって、この作品のタイトルになっている「おはよう」といった挨拶に始まる大人の会話は、ほとんどが無駄そうに見えるところから、この作品は展開していきます。

  近所でテレビを観る(注2)ことを三宅邦子扮する母親に叱られても、そうそう言うことをききません。むしろ、「大人だって意味のないことばかり喋っている」などと口答えするようになった子供たちは、笠智衆扮する父親から「少しは黙っていろ」と厳しく叱られます。そこで、会話を拒否して沈黙を守るという手段に打って出ます。コミュニケーションのストライキとでもいうべきでしょうか。

  兄弟は学校でも家でも近所でも、言葉を喋ることを拒み続けます。登校途中に近所のおばさんが「おはよう、行ってらっしゃい」と声をかけても、完全に無視です。他の要因も手伝って、近所での評判は悪くなります。

  兄弟は、明日、給食費をもっていかなければならないことを、身振り手振りで何とか伝えようとしますが、同居している節子叔母さん(演じるのは久我美子)にも母親にも伝えることができません。そうこうするうち、兄弟二人の行方がわからなくなってしまいます。

  こうした状況から、兄弟を見つけ出し、両親のもとに連れ戻して和解させる仲介者となるのが、佐田啓二扮する翻訳アルバイトの福井です。この人は、もとは編集者でしたが、出版社が倒産し、自らをルンペンと称して翻訳の仕事をしながら、子供たちに英語を教えたりしています。自動車セールスをしている姉(演じるのは沢村貞子)のところに居候をしているという設定です。最後に子供たちと親たちとの橋渡しをする重要な役だからこそ、日本語と英語を両方できる人でもあるのでしょう。

  ラスト近くのシーンでは、福井と節子が駅のホームで電車を待つ間の会話が続きます。話題は天気や空のことばかりで、中身のない会話といえば、そう言えるものです。しかし、だからこそ、ふたりの気持ちを読み取ることができそうな感じで、今後の展開を予感させるものです。

  

このように感じるのは、言葉で表現されているものではなく、会話の間や言葉以外の要素(表情や視線および身体の動きなど)もコミュニケーションを構成するからでしょう。

  無駄に思える、「おはよう」という挨拶や天気の話などが、実は人間関係をうまく機能させる役割を果たしていることが読み取れる作品です。その役割が失われるような事態になって、初めてその役割の重要性が確認できるのかもしれません。

  ところで、当サイトのインタビューで元看護師の山川さんにお話を伺った時に、「患者さんを一目見ただけで、その方の心境とか体調を判断するのが仕事」(注3)と言われていました。毎朝、「おはようございます」と声をかけるだけで、患者さんの体調などは読み取れたそうです。言葉の調子はもちろん、顔色や表情などからも体調や心境の日々の変化を察知するのが、プロの仕事なのでしょう。朝の挨拶は、健康管理上は検温みたいなものかもしれません。

  

直接の面談、電話やメール、スカイプなど、今からコミュニケーションの場を持ちますという感じが強いものは、挨拶からその場に入るのが一般的でしょう。一方、日常的なコミュニケーションの場では、挨拶が軽視されるのかもしれません。家族の間であるとか、同じ職場内といった場合です。SNSを通じてのコミュニケーションも、日常的なもののひとつでしょう。

  日常的なものであるからこそ、そこから察知できる変化に意味があります。挨拶といっても、起立して大きな声を無理にでも出して挨拶する必要はないでしょう。「おはよう」の一言に、日々の変化が表れており、それを察知して早めに手を打つのが、効果的で経済的なマネジメントを実現するポイントかもしれません。

  AIやビッグデータの時代ですから、生産性の高い職場と日常の挨拶との関係とか、コミュニケーションを活性化するような挨拶のありかたといったことが、次第に明らかになってくることを期待したいと思います。

 

【注1

映画に関する一般的なウェブサイトで紹介されています。たとえば、次のサイトにスタッフやキャストがリストアップされています。

http://www.jmdb.ne.jp/1959/ci002080.htm

また、松竹株式会社公式サイト内の“小津安二郎生誕110周年”記念サイトにも「お早よう」の作品紹介があります。

ちなみに、以下のサイトには小津安二郎の現存する作品が映像で紹介されています。

http://micchii.blog4.fc2.com/blog-entry-5562.html

 

【注2

この映画が公開された1959年(昭和34年)当時のテレビ(白黒)の世帯普及率は23.6%で、この年にあった皇太子ご成婚を契機に普及が進み、翌年には44.7%となっています。一次データではありませんが、テレビ普及率のデータは、以下を参照ください。

https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index13.html

また、この頃のテレビの普及状況と世の中の動向を説明している資料の一例を、以下にあげておきます。

http://www.kdb.or.jp/syouwasiterebi.html

 

【注3

山川さんのインタビューをご覧になりたい方は、以下へどうぞ。

http://www.qms-imo.com/インタビュー/山川氏/

引用部分は、この第3回にあります。

 

作成・編集:QMS代表 井田修(201669日更新)