保田道世氏の訃報に接して

保田道世氏の訃報に接して

 

 スタジオジブリ制作のアニメーションで色彩設計を担当するなど、高畑勲監督や宮崎駿監督などの多くの作品に制作スタッフとし参画した保田道世氏(注1)が逝去されていたことが、先週、報じられました(注2)。

 

 保田氏のことを知ったのは、20年ほど前に読んだ「アニメーションの色職人」という本でした(注3)。以下、同書にしたがって、保田氏のキャリアを辿ってみます。

 

1939 東京生まれ

1958 都立石神井高校を卒業、東映動画(現・東映アニメーション)に社員1期生として入社。コマーシャル部仕上課に配属され、トレースや彩色を担当。その後、テレビアニメーションの仕上とコマーシャルの仕上をトレーサーとして担当。

1964 東映動画の労働組合で執行部のメンバーとして書記に就任(副委員長が高畑監督、書記長が宮崎監督)。

196566 「太陽の王子 ホルスの大冒険」(注4)の仕上にトレーサーとして参画。

1968 東映動画を退社。

1969 Aプロに仕上として入社。松下幹夫氏と同棲開始(「アニメーションの色職人」刊行時点でも内縁関係を継続)。

1971 Aプロに高畑・宮崎両氏が入社。「ルパン3世」(第1シリーズ)、「パンダ・コパンダ」「パンダ・コパンダ 雨降りサーカスの巻」などの制作にトレーサーとして参画。

1973 Aプロに労働組合が結成される。副委員長に就任。

(高畑・宮崎両氏はAプロを退社の後、ズイヨー映像(現・日本アニメーション)に入社し“アルプスの少女ハイジ”の制作を開始)

1974 Aプロを退社し、ズイヨー映像に入社。「アルプスの少女ハイジ」の制作にトレースとセル検(できあがったセルの最終的なチェックと修正)として参画。

1975 「フランダースの犬」および翌年の「母をたずねて三千里」で色指定を事実上、担当(仕上チーフの仕事の一部として)。

1978 「未来少年コナン」で色指定・仕上検査を一人で担当。

1979年 宮崎監督、日本アニメーションより東京ムービーへ)

1981年 高畑監督、日本アニメーションよりテレコムへ)

1983 日本アニメーション在職(「ミームいろいろ夢の旅」の色指定・セル検を担当)のまま、トップクラフトにて「風の谷のナウシカ」を色指定として担当。

1984 日本アニメーションを退社、フリーに。「天使のたまご」 (押井守監督)で色彩設計・仕上責任者を担当。

1985 高畑・宮崎両監督らが設立したスタジオジブリの契約スタッフとして「天空の城ラピュタ」の色指定を担当。

198687 「火垂るの墓」のキャラクター色彩設計と「となりのトトロ」の仕上(実質的には色彩チーフか色彩アドバイザーで、色彩設計・色指定は別のスタッフ)を同時に担当。

1989 スタジオジブリの正社員に。その後のジブリの全作品(若手だけで制作した「海がきこえる」を除く)に色彩や仕上の責任者やバックアップとして関わる。

1995 「もののけ姫」に色彩設計として参画。「アニメーションの色職人」の取材を並行。

 

この時点(「もののけ姫」制作中)までの保田氏を、本人および関係者へのインタビューや関連する資料などから描いた著作が「アニメーションの色職人」です。

その後の保田氏は、スタジオジブリの作品には欠くことのできないスタッフとして、2013年の「風立ちぬ」(宮崎駿監督)まで、主に色彩設計として仕事を続けていきました。なんと半世紀を超えてアニメーションの現役スタッフとして活躍していたことになります。

そのキャリアを振り返ってみると、いくつかのターニングポイントがあったように思われます。

 

まず、最初に入社した東映動画ですが、東映アニメーションの社史(注5)にあるように、当時はアニメーション制作といういわばベンチャービジネスの会社でした。そこに、社員1期生ということで飛び込んだ保田氏は、そもそもは、色職人どころか、アニメーションにすら、特に興味があって就職したわけではなかったようです。

 

「仕上げがどんな仕事かも知らずに試験(引用者注:東映動画の入社試験のこと)を受けたんです。」(「アニメーションの色職人」35ページ)

「当時の女の子たちがみんなそうだったように、そこそこ働いたらお嫁に行って、仕事をやめるんだぐらいに思っていたんでしょうねえ。いや、そこまでも考えていなかったかもしれない。東映動画以外にもうひとつ受けたのが、東京海上火災の事務職。全然違うでしょ? そのぐらい職業を選択するという意識はなかったのよ(笑)」(同書36ページ)

 

ベンチャーで頑張るという気負いはなく、敢えて言えば、誠実に目の前の仕事を精一杯していった結果、仕上(トレーサー)として一人前の制作スタッフに自然に育っていったように思われます。

その過程で、後にアニメーション映画の監督となる高畑勲氏や宮崎駿氏が東映動画に入社してきて、ともに制作現場で出会っていくことが、保田氏のキャリアを方向付けていったのでしょう。

 

ところで、当時の東映動画は、作品の企画から脚本・作画(原画、動画)・美術・仕上・撮影といった、すべての工程が揃っていたそうです。それに対して、保田氏が次に入社することになるAプロは、制作会社の下請けであり、原画作成・動画作成および仕上に特化していたそうです。

こうしたアニメーション制作における分業体制はその後も進み、日本アニメーション時代には、制作の中核スタッフが制作会社にいて、他のスタッフは下請けとして制作会社の指示のもと、専門特化した作業を行うようになっていきます。

このあたりから、保田氏の役割は、仕上のスタッフの一人から、後に色指定と呼ばれる職種に次第に移り変わっていきました。当時のアニメーションのように、新しい産業が興隆すると、そこに新しい職業や職種が生まれていきます。いまなら、AIVRIoTなどのIT関連の業界から、ウェブデザイナーやデータサイエンティストなどの新しい職種が生まれています。

保田氏のキャリアもまた、意図してかどうかは別にして、新しい産業、その中での新しい職種を歩んでいたことがわかります。ただ、同様のキャリアを歩んでいたであろう人々は保田氏のほかにもたくさんいたはずですが、その第一線を切り開いていくには、与えられた仕事をただ処理しているだけではなく、より新しいものへの挑戦が不可欠と思われます。

 たとえば、「火垂るの墓」では、いわゆる茶カーボン(トレースの新手法)の開発や新しい絵の具の開発なども行ったそうです。また、「もののけ姫」では海外メーカーも巻き込んで絵の具の開発に当たったり、アニメーション制作現場のコンピューター化が進展するにつれて、デジタルペイントを積極的に導入したり、仕上のデジタル化に取り組むなど、さまざまな技術的なチャレンジをし続けていることがわかります。

その結果、保田氏はアニメーション制作の分野において色職人と呼ばれるような実力と実績を、意識せずに自然と挙げられていったのでしょう。現実には、日々の仕事に追われて、家事をやる間がないどころか、自宅に帰る時間がないことも珍しくはなかったようですから、キャリアを悩み考える時間もなかったのかもしれません。

ちなみに、保田氏自身は「アニメーションの色職人」のなかで、自らのキャリアを振り返って、次のように語っています。

 

「作品で決めた結果、高畑さんや宮さん(引用者注:宮崎監督のこと)の仕事を選んでいたんです。二人は、そのときそのときの時代と照らし合わせながら、どういう映画にするか格闘してつくっていく。その取り組み方が納得できるんです。」(「アニメーションの色職人」196ページ)

 

アニメーションの制作スタッフのように、自らが企画したり起業したりするわけではなく、誰かのプロジェクトに参画することで仕事をしていくような職種(そうした職種が一般の職業の大多数を占めると思います)の場合、誰と組むか、誰といっしょに仕事をするのか、ということがキャリアを大きく決定してしまうかもしれません。それだけに、ひとつひとつの仕事における人との出会いがキャリアを開発し発展させていく上で重要といえます。

言い換えれば、同じような仕事をしているように見えても、ある集団(プロジェクトチーム、企業、業界など)からは多くの人材が輩出されるのに、別の集団からはこれといって人材が輩出されないのは、いっしょに仕事をする人同士の相互作用のようなものが、個々の仕事の成果にも、その後のそれぞれの人のキャリアにも、大きく影響しているからでしょう。

 

保田氏のキャリアを振り返ってみてもうひとつ忘れてならないのは、労働組合の役員を2社で経験しているという点です。最初は20代で東映動画の労組で書記、2回目は30代でAプロの労組の副委員長です。特に後者は結成したばかりの労組での役員です。

いまでは、こうした経験をするチャンスはめったにないかと思いますが、これらがリーダーシップ、コミュニケーション(特にプレゼンテーション)、組織マネジメントなどの実践的なトレーニングの場となったであろうと推測されます。こういうことも、仕事をしていく上で何らかのプラスになったことでしょう。キャリアを考える際に、直接の仕事の経験とはいえないものでも、重要なポイントとなる例でしょう。

 

以上、色職人と呼ばれるようになった保田氏のキャリアを「アニメーションの色職人」を再読しながら辿ってみました。ここから、保田氏のキャリアについて、以下の6点をポイントとして指摘したいと思います。

 

①新しい産業、新しい仕事にチャレンジ(第1期生として入社)

②若い頃からマネジメントの経験を積む(労働組合の役員の経験)

③仕事の変化に柔軟に対応(業界の構造変化、会社の専門分化など)

④ベテランになっても、チャレンジを続ける(デジタル化など)

⑤一緒に仕事をする人々との出会い(高畑・宮崎両監督との出会いなど)

⑥家族の理解(夫の松下氏も同業者だったので)

 

 これらのポイントは、保田氏本人が意識的・計画的に実行したというものではないでしょう。ただ、これから就職しようとする人、新たなキャリアに進んでいこうとして迷っている人、自分のキャリアの先行きが見えない人などにとって、自身のキャリアを考える際にヒントを提示してくれるのではないでしょうか。

 

【注1】保田氏の略歴やスタッフとして関わった作品などについては、ウィキペディアなどを参照してください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%94%B0%E9%81%93%E4%B8%96

 

【注2

たとえば、以下のように報じられています。

http://www.asahi.com/articles/ASJBD3CHSJBDUTFL002.html

http://labaq.com/archives/51875455.html

 

【注3

「アニメーションの色職人」は、柴田育子氏が保田道世氏のことを書いた本です。同書についての詳細は、以下のサイトなどをご覧ください。

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%89%B2%E8%81%B7%E4%BA%BA-%E6%9F%B4%E5%8F%A3-%E8%82%B2%E5%AD%90/dp/4198607265

 

【注4

筆者が「太陽の王子 ホルスの大冒険」を観たのはACTミニシアターでした。

 

【注5

東映動画は、東映が日動映画を買収してアニメーション制作事業に進出した企業です。東映アニメーションの沿革に関心のある方は以下のサイトをご覧ください。

http://corp.toei-anim.co.jp/company/history

 

作成・編集:QMS代表 井田修(20161022日)