「応仁の乱」に見る創造的破壊とイノベーション(3)
イノベーションというと、一般的には、既存の支配勢力のなかからというよりも、その周辺や既存の支配勢力の力の及ばないところから発生するというイメージが強いでしょう。もしくは、既存のものが一度、徹底的に破壊されて、その後にゼロから生じたものによってイノベーションは起きるというイメージでしょうか。
応仁の乱が何らかのイノベーションにつながるものであるとすれば、それは既存の支配勢力が不在のところから発生するのではないかと考えられそうです。 ところが、現実には、既存の支配勢力のなかからも次の世代のイノベーションにつながる種が生じていた可能性があります。
特に観応二年(1351)の「両門跡確執」は大きな画期となった。一乗院と大乗院の争いは断続的とはいえ、三十年以上に及んだ。興福寺、そして衆徒・国民は完全に二分された。両門跡は武力を有する衆徒・国民を自派に取り込むために、競って恩賞を与えた。この結果、一乗院領・大乗院領は衆徒・国民の手中に落ち、門跡による荘園支配は形骸化していった。(「応仁の乱~戦国時代を生んだ大乱」呉座勇一著・中公新書11ページ)
興福寺の最高責任者を「別当」といいますが、その地位は興福寺内の二大勢力である一乗院と大乗院の最高責任者(「門跡」といいます)のいずれかが就くのが慣例となっていました。門跡というのは、単に最高責任者というだけでなく、藤原摂関家の血縁者が就く地位にのみ認められた呼称であり、極めて高い位です。
したがって、興福寺およびその支配下にある荘園というのは、当時の支配体制そのものです。その興福寺の別当の地位を巡って、三十年以上もの争いがあったそうです。その時期は、応仁の乱よりも百年ほど早い時期ですが、室町時代は南北朝の対立もあって、終始、既存勢力のなかで対立と抗争が起こっていたかのような印象を強く受けます。
こうした対立・抗争の間に、門跡などの旧来の支配階層と衆徒・国民(寺社の門徒)という被支配階層との間で力関係が逆転しかねない状況が発生してきたようです。いわば、神輿に乗って担がれる支配階層が、神輿の担ぎ手である被支配階層によって選ばれるような状況になってきたのでしょう。
とはいえ、尋尊には心配事もあった。これまでの大乗院門主とは異なり、前門主から必要な知識や作法を手取り足取り教えてもらえないのだ。尋尊と経覚との関係は疎遠で、経覚の日記「経覚私要鈔」すら閲覧を許されなかったのである。安田次郎氏は、尋尊が「大乗院寺社雑事記」という、他に類を見ない詳細な日記をつけた理由をこうした環境に求める。すなわち、自身のため、そして後継者のため、後から参照して役に立つ記録を作成したのである。(同書58~59ページ)
当時の支配階級出身で興福寺別当となる経覚と尋尊ですが、この二人の人間関係は必ずしも良好とは言えず、現代風にいえば、マニュアルとかシステムが断絶してしまい、尋尊は自ら作るしかない状況に置かれていたことになります。
イノベーションの観点からいえば、担当者の間で引き継ぎが行われず、そこに断絶が生じたことで、後任は新たな方法論を試行錯誤するしかないため、そこに何らかのイノベーションが起こる可能性が出てきます。
また、この当時は外部環境も大きく変わりつつあります。荘園の管理(年貢となる米などの農作物を集めて荘園領主である興福寺に送ること)という仕事ひとつをとっても、在地で実際に荘園の管理を行う実権をもつ人々(守護代に限らず、在地の武士や有力な農民の集団など)が入れ替わっていく状況に、柔軟に対応して、荘園領主側も交渉すべき相手を変えていく必要が出てきたでしょう。
年貢の取り立てに下向する荘園領主(たとえば興福寺)の側近や代官たちは、取り立てを妨害する在地勢力と交渉したり、ときには武力を頼んだりして年貢を確保しようとしたことでしょう。その在地勢力も一枚岩というわけでなく、話し合いや武力衝突も含めて、さまざまな駆け引きが行われたことでしょう。
そうした状況に応じるとは言っても、ただ状況の変化に対応するのがいいのか、何らかの基準や原則をもって時には厳しく応じるべきなのか、やりかたは人それぞれであったかもしれません。それがまた、応仁の乱という混乱した状況の下で行わなければならなかったため、更に混乱を招くことにつながったのかもしれません。
実際、大乗院尋尊は自分の前任者である経覚のやりかたに批判的だった。(中略)経覚の判断は前例にとらわれない柔軟さを持っている。だが、その反面、長期的な展望に欠け、その場しのぎのところがある。越智や朝倉に入れ込んだのはその典型で、経覚個人は良いとしても、興福寺や大乗院にしてみれば、武士たちに振り回されている不満はあっただろう。
(中略)尋尊は常に冷静沈着である。目の前で起こっている事象に対して軽々に判断を下さず、過去の似た事例を調べ上げた上で方針を決定する。その態度はひどく消極的に見えるが、大乗院が曲がりなりにも大乱を切り抜けることができたのは、門主である尋尊の慎重さのおかげだろう。(同書138~139ページ、段落分けは引用者による)
結果論ですが、経覚のやりかたを引き継がなかった尋尊は、時代の変化に対して自分なりのやりかたで適応していったと思われます。変化する時代への向き合い方はこのふたりでは異なるようで、経覚は柔軟というか融通無碍というかその場で対応するのに対して、尋尊は理論武装を重視し主張をもって交渉に臨むタイプであったように思われます。
イノベーションと呼んでいいのかどうかわかりませんが、この当時、領内を通過する人や物資から関所で通行税を取るとか、荷留といって輸送中の荷物を没収するなどして一種の経済封鎖を行うなど、単に所領から年貢を取るだけではなく、いろいろな徴税手法を用いて領内経営に当たる荘園領主や在地勢力が出てきたことにも注目したいところです。
このように、支配階層やその周辺においてもイノベーションは起こっていたようです。応仁の乱が単なる破壊だけではない点が、ここにあります。
実は、イノベーションには既存の事業や市場のなかにこそ生み出されるものもあります。むしろ、目立たないだけで、数は多いのかもしれません。
たとえば、牛丼チェーンであるとか、立ち食いそばであるとか、近年ではステーキやとんかつでも、ファストフードとしてチェーン展開するものが登場しています。こうしたものも、そのオペレーションの仕組みや出店方法などに何らかのイノベーションがあって初めて事業化できていることは間違いないでしょう。
また、コンビニエンスストアや100円ショップのような業態も、単にものを仕入れて売るだけではない仕組みや仕掛けがあるはずです。こうした業態を開発しビジネスとして成長し社会に必要とされるサービスとして定着していくのにも、必ずどこかにイノベーションがあるはずです。
こうしたものは、イノベーションというよりも業態の進化と呼ぶべきかもしれませんが、いずれにしても、すべてを破壊しつくしたところにだけイノベーションが起きるわけではないことを改めて確認できるのではないでしょうか。破壊に至らずとも、混乱や変化が一定期間続くような状況の下では、必ず何らかの新たな対応策が求められるからこそ、イノベーションが結果的に実現していくのかもしれません。
そうであるとすれば、イノベーションを継続的に実現する組織そのものやその周辺には、絶えず混乱や変化が起きているはずです。それを意図的に起こすには、担当者をいきなり変える、引き継ぎはしない、マニュアルは破棄する、といった仕掛けが実は効果的なのかもしれません。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2017年5月4日更新)