「応仁の乱」に見る創造的破壊とイノベーション(4)

 

「応仁の乱」に見る創造的破壊とイノベーション(4)

 

(3)より続く

 

 自動車やデジタルテクノロジーが、単に個別企業の製品やサービスのイノベーションをもたらしただけでなく、広く社会全体を変えていったことは改めて申し上げるまでもないでしょう。応仁の乱についても同様に、個々のイノベーションだけでなく、社会全体への影響とか波及効果ということに本当のインパクトが見て取れるでしょう。

 

応仁の乱後に京都と地方とを往き来したのは、貴族ばかりではなかった。たとえば、連歌師が職業的に自立し、各地を旅しながら生計を立てるようになったのも、この時期のことである。(中略)諸国を渡り歩いて連歌会を開く専業の連歌師が登場したのは、守護の在国化が進んだ応仁の乱以降のことで、その第一号が乱後に連歌界の頂点に立った宗祇だったのである。(「応仁の乱~戦国時代を生んだ大乱」呉座勇一著・中公新書264ページ)

 

応仁の乱がもともと京都を中心とした戦乱であったため、その混乱を逃れて貴族が京都を離れるようになりました。また、上洛ばかりしている間に在地勢力が守護大名に取って代わる動きも出てくるなどして、在京の守護大名も分国に下っていくようになります。

在京勢力といっても、戦う実力に欠ける人々は、足軽の供給源である都市下層民や敗残兵に取って代わられる危険性が高くなります。また、京都という大都市を支える物流も、畿内諸国に戦乱が広がるにつれて、機能しなくなりますから、京都から脱出して地方に下る人々も多くなるでしょう。

貴族や大名ばかりが影響を受けるわけではありません。貴族や大名に対してサービスを提供していた人々(たとえば連歌や茶道などに携わる人々)も、新たな取り組みが求められるようになります。そうした動きのなかから、連歌師のような新しい職業も生み出されるようになります。

もちろん、この時代に生きた人々全員がイノベーションを起こすわけではありません。多分、圧倒的に多くの人々は、戦乱が続く世の中にどう対処していいのか、わからないまま生き延びるのに精一杯だったのではないでしょうか。

そうした膨大な試行錯誤のなかから、次の時代につながるものが形成されていったのでしょう。宗祇にしても、自ら進んで諸国を渡り歩く連歌師になりたかったのかどうか、本人に尋ねてみたいものです。

 

イノベーションといえば個別の製品やサービスを革新するとともに、その市場の作り方・競争のありかたから革新することもあれば、マネジメントの手法や仕組みに関するもの、さらには価値観やものの考え方そのものを変えていくものまでもあります。

応仁の乱に即して考えてみると、井楼や発石木などの武器や兵器などの進化もありますが、足軽という新たな組織による戦い方のイノベーションが大きかったのではないでしょうか。足軽を組織化して戦力とすることを可能とする、京都を中心とする都市部における都市下層民の存在というのも、人材供給源のイノベーションと見るのか、封建制の身分秩序の創造的破壊と呼ぶべきなのか、判断はつきません。

応仁の乱というものが破壊してしまった最大のものは、貴族や武士といった生来の身分を前提とした秩序を守るとか、荘園制の下に生活していくという価値観や行動様式だったのかもしれません。その結果が、この後も戦国時代を通じて見られる下剋上という価値観や行動様式の普及でしょう。

下剋上という価値観が支配的になったとしても、全てが没落したわけではありません。むしろ、本当に社会的な底辺から成り上がったのはごく少数だったことでしょう。

その成り上がりを可能とする価値観や仕組みそのものが、次には破壊の対象と認識されたはずです。つまり、足軽に誰でもなれた時代は終焉し、幕藩体制という封建制と士農工商という身分制度が確立する方向に、再度、イノベーションが進んでいくことになります。

たとえば、室町時代の在京守護制が江戸時代には参勤交代という形に進化しているように思われます。天皇や貴族のいる京都とは別に、武士の都市としての江戸が成立するところに、ひとつのイノベーションがあったことを指摘できるでしょう。

現代でも、従来の制約条件を打破しモビリティ(物理的社会的なヒトの移動)を高めてイノベーションが一方向に進むように見えても、ふと気がつくと固定化(安定)の方向にイノベーションが切り替わっている時が来るかもしれません。

 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(201759日更新)