「1918年の最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか」に見るリーダーシップと戦略(1)
年末年始に読んだ本のなかで、「1918年の最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか~ドイツ・システムの強さと脆さ~」という新書がありました。
第一次世界大戦の最後の年、1918年に春季大攻勢を連合国軍に対して仕掛け、少なくとも戦術的にはかなりの勝利を収めたはずのドイツ帝国軍が、そこから間もなく敗戦国へと転落してしまう模様を、戦争の最高指導組織であるドイツ帝国の3リーダーの関係から分析を試みたのが、この新書です。
プロイセン王国は、戦争を通してドイツ統一に至った。その過程で国家指導の中心的役割を担ったのは、国王、首相、陸軍参謀総長の三者である。この三者鼎立のリーダーシップの三角構造(トライアングル)は、そのままドイツ帝国に受け継がれ、第一次大戦時にも続いていく。(「1918年の最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか~ドイツ・システムの強さと脆さ~」飯倉章著・文春新書27ページより、以下の引用はすべて同書より)
プロイセンを中心として20以上の君主国や自由都市が連邦国家を形成したのが、ドイツ帝国です。その帝国の最高指導者のリーダーシップのありかた(トライアングル)から、第一次大戦時には最強と考えられていたドイツ軍がどのように敗戦に至ったのか、その経緯や原因を探求しています。
ドイツ帝国をひとつの企業体とみれば、いくつもの企業(事業部門)から構成され、それぞれの企業文化やビジネスモデルも異なるものを、経営トップのリーダーシップで束ねていこうとする事例として読むことができます。
プロイセン王国の国王がドイツ帝国の皇帝となることから明らかなように、その特質はプロイセン王国という中核的な事業会社が主導する企業グループといえます。その企業グループのトップのリーダーシップは、次のように移り変わっていきます。
ドイツ帝国誕生時
CEO(皇帝):ヴィルヘルム1世
COO(宰相):オットー・フォン・ビスマルク
CMO(参謀総長):ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
第一次世界大戦開戦時
CEO(皇帝):ヴィルヘルム2世(ヴィルヘルム1世の孫)
COO(宰相):テオバルト・フォン・ベートマン=ホルヴェーク
CMO(参謀総長):ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケの甥)
1918年春季大攻勢時
CEO(皇帝):ヴィルヘルム2世(ヴィルヘルム1世の孫)
COO(宰相):ゲオルク・ミヒャエル
→ゲオルク・フォン・ヘルトリング
CMO(参謀総長):パウル・フォン・ヒンデンブルク(参謀本部参謀総長)+エーリヒ・ルーデンドルフ(参謀次長を第一兵站総監と改称し、実質的に軍全体の指揮を執る)
形式的には、ドイツ帝国誕生時と同様に第一次大戦時もトップのリーダーシップはトライアングルで維持されていますが、その実情は大きく変化してきています。その後、第一次大戦が西部戦線で膠着状態となるにつれて、本来はトップのリーダーシップのメンバーではないはずの陸軍参謀次長の存在が大きくなり、1918年春季大攻勢時には、“ルーデンドルフ独裁”と呼ばれることもあるほどに、ルーデンドルフがドイツ帝国全体の方針に多大な影響力を行使するようになります。
現代の現実の企業でも、経営トップやナンバー2の役員はいても実権がなく、実力者の常務クラスの意向で会社の方向性から個別人事までが決まる、そういう会社があります。春季大攻勢時のドイツ帝国にも、そうした傾向が読み取れそうです。
このトライアングルは、全体の戦略を司り、国家の方針について意思決定する皇帝をトップに、議会との折衝および外交や内政の諸問題への対応に当たる宰相(首相)と軍事(作戦)面で皇帝を支える参謀総長(現代の企業風にいえばチーフ・ミリタリー・オフィサーというところか)が、それぞれの役割を果たすことで成り立つ仕組みであることは、組織について考えたことがあればすぐに理解されるでしょう。
ただし、皇帝が宰相や参謀総長の任免権をもっているという点で、皇帝の意向が最終的に組織の意思を決定することになります。この点、CEOとCOOおよび他のCXO職との関係に類似しているといえます。
こうしてみると、相互にチェック・アンド・バランスが働き、政治と軍事がうまく噛み合って国家が運営されそうです。実際、プロイセン王国でうまくいっていたからこそ、ドイツ帝国が成立したとも言えます。
しかし、歴史をみれば、ドイツ帝国は第一次大戦の敗北という“経営の失敗”を犯してしまいました。その原因を探りながら、企業経営のヒントになりそうなものを、次回以降、ご紹介していきたいと思います。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2018年1月24日更新)