「1918年の最強ドイツ軍なぜ敗れたのか」に見るリーダーシップと戦略(6)
参謀本部に入ったヒンデンブルクとルーデンドルフは、すぐにドイツ軍全体の現状を調べ、西部戦線で反転攻勢をかけるべく必要な行動に移ります。ヒンデンブルクは経済全体を軍事の下に置く体制改革(第二次大戦中の国家総動員体制と同様のもの)を提案したり、ルーデンドルフは西部戦線に自ら赴き、1918年の春季大攻勢に向けての準備に取り掛かったりします。
戦術面では、フランスで考え出された浸透戦術(注5)の採用、エリートとのいうべき歩兵強襲部隊の確立(注6)、浸透戦術の効果を高めるための砲術の革新(注7)、大攻勢前の訓練(注8)など、次々と西部戦線で効果的と思われる方法を実現すべく必要な準備を進めていきます。
こう述べると、トライアングルが機能しているかのように思われます。
参謀総長たちが大攻勢の準備と並行して行っていたのは、宰相ベートマンの追い落としなど、人事や権力構造に関する政治的な動きばかりでした。いかに戦争に決着をつけるのか(どのタイミングで和平交渉をするのか)という、最も高度な戦略が必要となる事項については、宰相ベートマンは外交交渉での決着も考慮していたようですが、その後に就任したゲオルク・ミヒャエルもゲオルク・フォン・ヘルトリングも着手することもないまま、時間は過ぎていったようです。
そして、ドイツ帝国のCEOとして国家戦略の立案・実施に最も責任をもって取り組むべき皇帝ヴィルヘルム2世は、個人的にルーデンドルフとまったく反りがあわない上に旧知の宰相ベートマンがいなくなり、国政へのやる気を喪失したかのような、有様だったようです。形式的には最高司令官(大元帥)であるカイザーは、もともと個別の軍事作戦には口を差しはさむことはなかったとはいえ、外交含んだ意味での戦争指導に消極的というのでは、帝国のCEOとしては職務放棄と言わざるをえません。
つまり、トライアングルはそのふたつの頂点が機能せず、軍事という1点のみが突出して機能してしまうものに変質していたわけです。ただ、軍事といっても、具体的な施策として打ち出されているのは、あくまで陸軍の部隊(野戦)戦術の革新策です。これはこれで重要ですが、あくまで部隊レベルの話であって、ドイツ帝国陸軍全体で第一次大戦をいかに勝ち抜くか、そのための肝はどこか、そして軍事的な勝利以上に政治的な勝利をどういう形で実現するのかという視点からの施策は見当たりません。
もちろん、それがドイツの敗戦を直接、意味するわけではありません。むしろ問題は、1918年の春季大攻勢では当初はドイツ軍が先日的に勝利したにもかかわらず、最終的にはドイツ軍の瓦解につながっていくことのほうでしょう。
ルーデンドルフは戦略目標を分かりやすく設定しようとはしなかった。(中略)ルーデンドルフの意図(戦略と呼んでもいいかもしれない)は、それだからこそ最初の攻撃で突破を図る戦術を極めて重視した。しかし、その一方で(あるいはそれによって)地理的な攻撃目標の設定、ひいては戦略目標の設定はなおざりにしてしまった。
地理的目標設定を促されて、前に紹介したようにルーデンドルフは「ロシアで我々はいつも直近の目標を立て、次いでどのように事態が展開するかを見てきた」と言い返した。このことが象徴しているように、彼の作戦には「出たとこ任せ」で「場当たり的」な部分があった。(同書262ページより)
ミヒャエル作戦(引用者注、1918年春季大攻勢の最初の作戦行動のこと)で思いがけないほど順調に突破を果たしたために、ドイツ軍は戦略的目標に手が届くところにまで進んだ。それはアミアンであった。しかし、遅まきながらアミアンに目標を定めた時には、そこを陥落させるには十分な兵力もなく、敵に時間を与えたため守りも固められてしまった。(中略)アミアンとハーゼブルクの二拠点はイギリスの兵站を担う鉄道の結節点で、イギリス本土からの補給の半分はそこを経由していた。イギリス軍にとっては、まさに急所だった。そこを最初から何が何でも攻略すべきだったのに、ミヒャエル作戦は大規模ではあったものの戦略的には中途半端であった。(同書263ページより)
このように、参謀総長および第一兵站総監(参謀次長に相当)の戦争指導が目先の攻撃目標を指示するだけというのでは、実戦部隊はたまりません。企業でいえば、会社全体の営業戦略を立案すべき営業本部長が、ライバルと凌ぎを削る重点地区とはいえ、都内のある地区の営業戦術にしか注力しないようなものです。実際、ルーデンドルフは外交とも密接にリンクした軍事全体の戦略は頭にないようで、野戦部隊の作戦参謀として物事に対処しているようです。
また、到達すべきゴールを提示していなかったことも失敗の要因として大きいでしょう。企業においても、毎日ただ「営業活動に当たれ」というだけでは、いかに正しい営業方法を採っているとしても、続かないでしょう。今日の目標(やるべきこと)、今週の目標、今月の目標など、目標のブレークダウンはもとより、一連の目標が会社全体の目標達成や目標を達成して到達できるもの(目標達成の意味)を実感できなければ、目標達成を迫られる社員は皆、次第に疲弊していくことでしょう。これと同じような疲弊現象が、より激しい形でドイツ帝国軍を襲うことになります。特に相当の犠牲が出ている状況で具体的な成果が実感できないとなれば、指導部やそのリーダーシップのありかたに対する批判や不信感が出てくるが当然です。
ただし、こうした戦略なき戦争指導の責任はルーデンドルフ一人に帰すべきものではありません。部下のやりかたを黙認どころか、いっしょになって政治的な人事にも介入したヒンデンブルクにも、ドイツ帝国全体の軍事戦略(軍事戦略は外交や内政とも連動しなければ意味がありません)を宰相と連携して主導した形跡は見られません。さらに宰相(政治)と参謀総長(軍事)に対して本来は国家ビジョンを示しながら指導力を発揮する、それが難しければ、せめて両者の間の調整くらいはすべき皇帝も、果たすべき役割を全うしていない点に、真の問題はあります。
【注5】
フランス軍のアンドレ・ラファルグ大尉が書いた『塹壕戦における攻撃』というパンフレットに提示されているアイデアに基づき、敵の陣地を攻略する作戦のひとつです。短時間で圧倒的な弾幕砲撃を実施し、次に軽機関銃・火炎放射器・迫撃砲などで重装備した歩兵の強襲部隊が敢然と前進し、敵陣地後方の砲兵陣地を一気に制圧することを目指します。この際、敵の抵抗地点は強固なものほど迂回して、敵陣奥深くに一気に進むことが重要で、敵の抵抗地点の制圧は後から侵入してくる一般の歩兵部隊に任せることになります。
【注6】
注5で触れた、軽機関銃・火炎放射器・迫撃砲などで重装備した歩兵の強襲部隊がいわば攻撃のエリート部隊で、相当の訓練を経て実戦に投入されます。ただ、一気に敵陣深く浸透しなければならないため、部隊の損耗も激しく、兵員の交替もできません。また、次の作戦行動があっても、継続的に同じ兵員を投入し続けるわけにもいきません。戦闘行為が長引くほど、こうした歩兵部隊への負荷が大きくなり、兵士の厭戦モードを高くする副作用がドイツ帝国軍のなかにも出てしまいました。
【注7】
ゲオルク・ブルヒミューラー大佐が編み出した、敵陣地深くまでの砲撃と正確な移動弾幕射撃により、数時間の砲撃で敵の士気をくじき、敵を陣地にくぎ付けにする効果を狙った砲撃術が開発・導入されます。毒ガス攻撃を含む3段階の砲撃と、歩兵による奇襲を連動させて行うものであるため、部隊間のコミュニケーションやさまざまなタイプの砲を扱う技術などが不可欠となります。
【注8】
エーリッヒ・ブルコウスキー大尉が開発した、後にNATOも運用することになる砲術の運用方法(個々の砲の特徴を事前に把握し表にまとめる、風向・風力・気圧・天候・火薬の状態などを記録し表にまとめる、攻撃目標の正確な地図上の位置データを書き入れる、以上のデータに基づき修正射撃なしで正確な砲撃を実施する)をルーデンドルフが採用し、ブルコウスキーが教官となって約6000人の士官・下士官に指南することになります。
また、歩兵についてもライフル中心の銃器訓練から軽機関銃を主役とする銃器訓練に変更したり、郵便物の検閲から司祭や内通者まで使って兵士の不満や不安の声を吸い上げて、芝居や映画などのエンターティンメントやビールなども活用して兵士のモチベーションを高めようと試みています。
こうした訓練や準備はルーデンドルフを中心に行われました。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2018年2月15日更新)