「超越の棋士 羽生善治との対話」に見るリーダーシップ(3)
「自分が考えやすい局面、わかりやすい局面にもっていきたいという気持ちはどうしてもあるんですよね。そこでちょっと……辛抱が足りなかったということはありますね。辛抱といっても、ただ受けに回るのではなく、不安な局面を耐え抜く辛抱や、漠然とした状態を平気でいられるような辛抱ということです」(「超越の棋士 羽生善治との対話」高川武将著・講談社刊94ページより、以下の引用はすべて同書より)
これは、8年前に当時の渡辺明竜王(現・棋王)との竜王戦に敗れて永世7冠の挑戦に再度失敗した直後のインタビューで羽生氏が語った言葉の一節です。
リーダーに限らず、一人ひとりの人間にとっても、不安な状況や漠然とした状態に置かれたままというのは、なかなか耐えがたいものでしょう。まして、真剣勝負の最中に、有利でもなく不利でもない、どちらがいいとも言えない情況が続くほど、それに耐えることができずに、どこかで暴発してしまったり、反対に局面の変化を待ちすぎて好機を逃し事後にそのことを後悔したり、というのが常人です。
どっちつかずの曖昧な状況をも楽しむ余裕こそ、リーダーに求められるマインドセットかもしれません。特に、組織を率いて事業を立ち上げようとしたり、大きな変革を起こそうとしている際には、なかなか具体的な進展や目に見えた結果が出ずに、大きな不安に囚われたり自信を失いかけたりしがちです。そういう時にこそ、羽生氏の語る『辛抱』が重要です。
現代のようにネットで調べればすぐに答えが見つかる時代では、答えを探す以上に問いを追い求める状態を保ち続けるというのは、結果をすぐに出したい私たちにとって最も困難なことかもしれません。だからこそ、少なくとも真のリーダーには、ここでいうところの『辛抱』が肝要です。
ただ、結果が出ないというのは、いかに自分では正しいことを正しい方法で取り組んでいるとわかってはいても、非常に苦しいことに変わりはありません。この状況は将棋のようなゲームに限らず、ビジネスにおいても同様です。いかに正しいアプローチで顧客開拓に全力で取り組んでいるとしても、実際に一人の顧客を獲得できたという結果のほうが、自信につながります。その結果が出るまで、気持ちが切れずに、取り組み続けることができるかどうか、そう簡単にできることではありません。
渡辺棋王よりは上の世代で、タイトル戦でタイトルホルダーの羽生氏に何度も挑戦しながらなかなかタイトルを取ることができなかった久保利明王将は、その間の心境を次のように語ります。
「羽生さんはただ純粋に将棋を楽しんでいて、最善手を求めているだけなのに、僕が考えすぎて、自滅していました。形勢がいいのに引っ繰り返されたり、勝てそうなのに勝てなかったり……ということが続くと、『次も勝てないんじゃないか』『何もやってもダメなんじゃないか』『またか……』と思ってしまう。勝手に心を折られているだけなんです。
(中略)だから、羽生さんはなぜ強いのか、なぜ勝てないのか、考えることをやめました。自分をステップアップさせることだけに集中しよう、と。
(中略)対局で盤の前に座ったら、縁台将棋のおじさんたちのように楽しもう、と。
(中略)指していて、気がついたら夜中になっていて、気がついたら終局を迎えている。でも、まだ終わりたくない……そんな気持ちでやっていこうと考えました」(同書128~129ページ)
将棋の対局相手というのは、所詮は他人ですが、その他人の存在がどうしても将棋というゲームに集中し結果を求めようとすればするほど、相手のことにばかり意識が向いてしまうのは、仕方がないことかもしれません。とはいえ、そうである限り、肝心の結果がついて来ません。特にトップレベルの勝負では、目の前の対局に集中できないところがわずかにでもあると、隙が生じて負けてしまうわけです。
ここに見られるのは、個人的な感情を抜きにして純粋に将棋に打ち込む羽生氏の姿です。リーダーというと、ライバルを蹴落として自分の地位を維持しようとする人もいるかもしれませんが、それでは一時的なチャンピオンになることができるのが限界です。すぐに次の挑戦者にチャンピオンの座を追われることになります。
むしろ、リーダーは最善を尽くすことに集中している姿を見せることが大事です。その結果がどうであろうと、最善を尽くす姿にリーダーとしてのあるべき姿を看て取れるのではないでしょうか。
ここで、目の前の対局に集中して最善を尽くすということは、楽しいというレベルを超えて頭がフル回転して無我夢中(忘我)の状態に至っているのではないかと思われます。これはゲームに限らず、仕事や勉強でも実感する人がいることでしょう。アーティストが創作活動に集中したり、医師や看護師が突発的に救命活動をすることになったりしたときにも、同様のことが体験されるのかもしれません。
現実には、特に仕事という面においては、ここまでの集中が現出することは、なかなか目にしたり体感したりする機会は起こりえないでしょう。ビジネスリーダーは、他のメンバーがこうした集中を実現できるようにするにはどうしたらよいのかを考えるのが筋ではありますが、その前に、リーダー自身が純粋に仕事に打ち込んでいる姿を体現できているかどうか、もしできていないのなら、何が妨げとなっているのか、改めて自らに問うことから始めたいものです。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2018年11月6日更新)