「超越の棋士 羽生善治との対話」に見るリーダーシップ(7)
「まあでも、何百回やろうが、何千回やろうが、完璧になるっていうことはないですよ。検証したり修正したりして、多少は前よりも良くすることはできるかもしれないですけど(中略)どんなに反省したり工夫しても、失敗するときは失敗するし、焦るときは焦るものです。その心理的な不安や迷い、恐怖のようなものは常にあって、完全に打ち克つことはできないです」(「超越の棋士 羽生善治との対話」高川武将著・講談社刊286~287ページより、以下の引用はすべて同書より)
これは、残念ながら先週の金曜日に広瀬8段との対局に敗れて竜王を失冠した羽生氏が、ほぼ4年前に4冠(名人、棋聖、王位、王座)を保持していた頃にインタビューで高川氏に語った言葉です。
勝負事ですから、心理的な面だけでなく肉体的なコンディションなども含めて、いつもベストの状態で対局に臨むことができるわけではありません。それは、一般のビジネスパーソンにとっても同様です。毎日、ベストな状態で仕事に臨むことなどありえません。むしろ、ベストではない状態でも、それを当たり前のこととして受け止めて、修正すべき点は修正して次に臨むことでしょう。その反省や修正を毎日、やり続けることができるところに非凡さがあるのかもしれません。
それでも、不安、迷い、恐怖などの感情に打ち克つことはできない、というのは、もしかすると機械(コンピューター)と人間を分かつものかもしれません。ゆえに、人間同士の勝負が面白い、とファンは思うのかもしれません。
「羽生さんは、自分が勝つこと以上に将棋界全体を大事にしている人だと思います。彼は技術の囲い込みをしなかった。七冠になった頃、専門誌で連載していた序盤の研究は、プロが読んでも難解で、ここまで突き詰めているのかと驚きました。もし、自分だけが勝てばいいと思っていたら、ああいうことは決してしなかったはずです」(同書319~320ページより)
こう述懐するのは森内俊之9段(現・日本将棋連盟専務理事、18世名人有資格者)です。
毎日の仕事が対局と研究だけであれば、最先端の研究をすることはまだ可能かもしれません。プロの棋士、特に七冠時代の羽生氏のようにアイドル並みに取材やテレビ出演などもこなしていた人が、同業者のプロ棋士もついていくのがやっとというレベルの内容で研究を公表するというのは、手のうちをすべてさらけ出すようで、目先の1勝を考えれば、損しかしないでしょう。
しかし、第一人者として注目を集める人が最先端の研究内容を明らかにすると、その内容がいわば業界標準(スタンダード)となります。そのスタンダードに満たないものは、発表に値しません。現代でいえば、第一線の研究者が今日発見したものをブログにアップするようなものです。こうしたことを続けていくと、全体のレベルアップは急速に進みます。
同様の例として有名なのは、MLBを代表する投手だったノーラン・ライアンが自らの投球術やフィジカル及びメンタルのトレーニング方法などを日常生活の過ごし方も含めて、コーチのトム・ハウスとともに幅広く解説した「ピッチャーズ・バイブル」(注1)という書籍です。刊行されて既に27年が過ぎていますが、今でも野球選手、特にピッチャーにとっては、文字通り、バイブルと言えるでしょう。
リーダーは、こうしたスタンダード作りが自然と出来てしまうところがあります。もちろん、業界全体でなくとも、働いている企業の中でのスタンダードかもしれませんし、所属する部署でのスタンダードに過ぎないかもしれません。ポイントは、周囲の人々に自然と教えていたり、他社の人々であっても話を聞きに来たりするなど、その人の考え方や行動などを周囲がいつの間にか模倣している点です。
つまり、本人が知らないところで、いつの間にか新たなスタンダードができていく、それがリーダーの影響力のひとつです。
ただし、これを意図的に行うとすると、政治的な動きといいますか、取り巻きを作って多数派工作に走るようなものになったり、上司が命じて半強制的に真似をさせたりして今ではパワハラにもなりかねません。あくまでも自然発生的に模倣が発生するのです。
現代では、AIやインターネットなども含めてデジタル技術抜きでは何も始まりません。将棋の研究でも同様です。誰が始めたというわけでもなく、今ではコンピューターなしで研究を行うことは難しいでしょう。ただ、その活用の意義や方法は、まだまだ試行錯誤の段階にあるようです。
「ある局面でAとBという二つの候補手があったとしますよね。両方の有効性を、コンピュータが確率的なアプローチでAが60%、Bが40%と示したら、人間はどうするか。100人がどちらかを選ぶ場合に、Aを60人、Bを40人が選択するのではなくて、おそらくもっと高い確率でAに偏って、おそらく90対10とか、95対5くらいに分かれると思うんです。だから、コンピュータが創造性や多様性をもたらすどころか、逆に縮めてしまう可能性は確かにありますね」(同書272~273ページより)
このように語る羽生氏は、多分、デジタル技術の活用についても、相当の知見を有しているのではないかと思われます。実際、AIについてNHKのドキュメンタリーでナビゲーターを務めたり、研究者との交流をもったりしているわけです(注2)。
リーダーに望まれるのは、新しいテクノロジーが実地に及ぼす影響やそのテクノロジーの限界や本質的な欠陥などを洞察して、その活用方法を提示して見せることかもしれません。ノーラン・ライアンも、現役で活躍していた当時(1960年代後半から90年代前半)はまだ珍しかったウエイト・トレーニングや食事の管理などを積極的に導入して、好成績を挙げるとともに四半世紀を超えて現役のメジャーリーガーとして活躍しました。その方法論や考え方をまとめたものが「ピッチャーズ・バイブル」です。
ビジネスパーソンも同様です。10年を超えてそれなりの実績を挙げ続けているのであれば、自分なりのメソッドとか仕事へのアプローチといったものが確立されているはずです。それらを蓄積して未経験のスタッフを教育する際の教材にするとか、過去の成功例・失敗例をAIで分析して新たな知見を引き出すとか、何らかの方法で体系化・客観化することがあっていいはずです。そのうえで、新たなテクノロジーや社会的なトレンドなどを仕事に導入して、新たな成果を挙げてみせるのがリーダーです。
さきほど紹介したように、羽生氏はAIなどのデジタル技術に興味や関心を持っていることは事実ですが、それだけに興味を持っているわけではありません。「超越の棋士 羽生善治との対話」で言及されているものだけでも、日本の伝統と文化、精神世界、麻雀、クラシック音楽、文学などがあります。
ここまで幅広い興味や関心を求めるのは酷というものですが、現にやっている仕事のほかに、リーダーともなれば、何か刺激を受けるようなテーマや分野があって欲しいものです。そうしたものがないと、ただ仕事を効率的にやるだけでは、あっという間に成果が挙がらなくなる虞が大きいのではないでしょうか。
より大きな成果を挙げるには、今の仕事をゼロから見直したり、そのやりかたを抜本的に変えたりすることも必要で、その際の試行錯誤に耐えられるメンタルも不可欠です。
そのためには新しいアイデアが求められるとわかってはいても、そうそういいアイデアなど出てこないでしょう。まして、目先の仕事だけをこなしてきた人に、その場で急に新しいアイデア出せと言っても、無理な相談です。結局、それまでにどれだけ幅広い知見が身についているか、が問われることになるのは、将棋もビジネスも大した違いはないでしょう。
【注1】
「ピッチャーズ・バイブル」の内容や特徴は、たとえば以下のブログに詳しく紹介されています
https://blogs.yahoo.co.jp/cards_carp/11878679.html
【注2】
NHKの番組については、以下のサイトを参照してください。
https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20170814/index.html
一例をあげれば、NTTの研究を紹介する記事にも登場しています。以下のサイトを参照してください。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52687
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52693
作成・編集:QMS 代表 井田修(2018年12月25日更新)