「2001 キューブリック クラーク」に見るリーダーシップとイノベーション(4)

「2001 キューブリック クラーク」に見るリーダーシップとイノベーション(4

 

 起業にせよ、製品開発にせよ、生み出すべきアイデアはあっても、それを具体化して顧客に届けることができなければ無意味です。アイデアを具体化するプロセスに必要なものこそ、組織や人材にほかなりません。

 映画「2001年宇宙の旅」を生み出したスタンリー・キューブリック監督にとっても、必要な人材を迅速に調達して実際の製作活動に入っていくプロセスにおいて、まずは映画製作の経験者や宇宙に関するビジュアルを制作したことがある経験者を探すことからスタッフィングが始まりました。

 その結果、撮影に関しては、ジェフリー・アンスワース(撮影監督)とジョン・オルコット(アンスワースの助手、『人類の夜明け』パートの撮影監督)を核とし、セット・装置・大道具・小道具などのプロダクション・デザイン(美術)については、トニー・マスターズ(主任プロダクション・デザイナー)とアーニー・アーチャー(マスターズの助手)といったように、映画製作経験のあるスタッフが集まりました。

また、月や木星、宇宙船そのもの、宇宙船内の生活や船外活動など、宇宙についての具体的なイメージを形成する上で、ハリー・ラング(ドイツ出身でロケット工学のフォン・ブラウンとともにNASAで働いていた)をグラフィック・デザイナー兼プロダクション・デザイナーとして契約しました。彼はセットデザインなどで大きく貢献しています。

 映像面での肝となる特撮や視覚効果については、製作初期はウォーリー・ジェントルマンを視覚効果監督としましたが、製作途中で健康上の理由により現場を離れたため、既に製作した映像を見ていたコン・ペダーソンを後任としてアメリカから呼びます。

 

起業においてもそうですが、こうした経験者だけでは仕事の量も質も回りません。未経験者であっても、どうしてもやってもらわなければならない仕事、それもそうそう容易ではない仕事があります。つまり、未経験者をすぐに戦力化することが、イノベーションのマネジメントでは往々にして求められます。

その代表例がダグラス・トランブルです。

彼は、視覚効果監督となったコン・ペダーソンの部下だった縁で、SFに関するアニメーションやイラストを作成する担当者として自らキューブリック監督に売り込み、採用されたのですが、「2001年宇宙の旅」製作当時は、短編のSF映画に用いるアニメーションを制作したことがある程度で、未経験に限りなく近い経験者に過ぎませんでした。

そのダグラス・トランブルは、この映画の製作が進むにしたがって、一介のアニメーターから4人の視覚効果スーパーバイザーの1人にまで登用されていきます。

2001年宇宙の旅」の特殊性として、一貫性のある完成した脚本に基づいて作るのではなく、脚本も映像も試行錯誤も繰り返すなかで作業を進めていくということがあります。まさに、試してみて、だめなら作り直して、市場に出していく、現代の起業や製品開発のプロセスと重なります。

そのプロセスで、アニメーションの撮影方法の革新、アニメーション制作会社からの人材引き抜き、『スター・ゲート』シーンの映像制作に用いられているスリットスキャン・マシンなどの撮影機材の開発などを実現していきます。さらに、アニメーションだけでなくセット製作・小道具製作・ミニチュア製作なども手掛けるようになります。時には脚本の変更にまで口を出してキューブリック監督と対決寸前までいくこともありました。

こうして製作作業を次々と幅広く経験していくことで、映画「2001年宇宙の旅」の後、視覚効果の専門家として活躍し、自らSF映画を監督するようになります。視覚効果としては、「アンドロメダ…」「未知との遭遇」「スタートレック」「ブレードランナー」などの映画作品があり、監督としては「サイレント・ランニング」「ブレインストーム」などの長編映画や数多くの短編作品があります(注6)。

 

未経験者から映画作りのプロとなる人材を輩出したのは、特撮や視覚効果の分野だけではありませんでした。その代表例が、アンドリュー・バーキンです。

彼は、モデル・歌手・女優のジェーン・バーキンの兄ですが、「2001年宇宙の旅」製作当時は、無名の21歳の若者でした。

キューブリック監督のアシスタント(毎日スタジオのスタッフ全員に温かい飲み物とコールシートと呼ばれる進行予定表を用意する“ティーボーイ”の担当)として夜勤担当時に、砂漠のロケ地をイギリス国内で探すチャンスを得た彼は、実際にイギリスでの航空撮影に派遣されたり、いきなりアフリカに行ってロケハンと現地の風景の撮影を一任されたりします。

こうして映画製作にかかわった経験から、脚本家や映画監督としてのキャリアを歩んでいきます。後に「薔薇の名前」(注7)では脚本と出演をしています。

 

キューブリック監督の人材の発掘・活用がいかにダイナミックなものであったかは、トニー・フューリンの例が物語ります。

彼は、映画撮影に使っていたボアハムウッドのMGMイギリス・スタジオのスタジオ付き運転手の息子で、学校も行かず仕事もなく過ごしていた17歳の時に、キューブリック監督のアシスタントとなりました。

この職位はイギリスの映画製作においては、ユニオンカード(正規の労働組合員)が必要な地位で、監督の直属のスタッフとして当時はまだ上流階級の子弟たちが出世の足掛かりとして得ようとするものだったようです。その職に、下層階級出身の少年がいきなり抜擢されたのです。

多分、キューブリック監督はスタジオで働く多くの人々に誰彼となく人材募集の声をかけていたのでしょう。そして、採用面接も日常的に行われていたのでしょう。

トニー・フューリンは父親に言われた時間にスタジオの一室を訪れるのですが、彼はその外見や挙動から清掃員だと思っていたキューブリック監督からいきなり直接声を掛けられます。そして、室内にあった本のコレクションには驚嘆しつつも、物おじせずにシュールレアリスムやSFについて語り合うこと2時間、そのまま採用決定となり、明日より監督のアシスタントとして製作スタッフの間を走り回ることになります。

この例は、身分(出自)にとらわれないどころか、直接的な仕事のスキルも問題とせずに、一緒に作品を作るに値する人間かどうかで人材を判断しているのではないかと思われるものです。特に、自分の身近にいて自分の意思を他のスタッフに伝えるような役割では、こうした観点で人材を見ることが重要です。

 

 以上、本書で言及されている人々の中から、未経験者の活用の典型的なケースをご紹介しました。

起業や製品開発など、イノベーションが強く求められる状況では、経験者だけでは限界があるところを、リーダーが未経験者を活用しながらその限界の先へと突き進むことで、初めてイノベーションが起きる可能性がある、その実例を映画「2001年宇宙の旅」の製作プロセスに見ることができます。

 

【注6

参考までに、後にダグラス・トランブルが関わることになる作品の予告編をご紹介します。

 

「アンドロメダ…」 

「未知との遭遇(特別編)」

「スタートレック」(1979年公開)

「ブレードランナー」(1981年公開)

「サイレント・ランニング」

「ブレインストーム」

 

【注7 

「薔薇の名前」の予告編をご紹介します。

 

(5)に続く

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(2019415日更新)