田中珍彦氏の訃報に接して
先週、19日、株式会社東急文化村元社長で、創設準備からBunkamuraの設立・運営に携わった田中珍彦氏が79歳で死去しました(注1)。1989年にオープンしたBunkamuraは、映画(ミニシアター2館)、演劇・オペラ・バレエ・コンサート等の企画・公演(2ホール)、企画展のみの美術館(1館)を中心に、渋谷の東急百貨店本店の裏にまで人を引き込む仕掛け(注2)を成功させました。
筆者もBunkamuraオープン当初よりシアターコクーンで芝居やミュージカルを楽しみ、オーチャードホールでオペラやバレエを堪能し、ときにはル・シネマやザ・ミュージアムで映画や絵画などの作品を鑑賞し、ドゥ マゴ パリやロビーラウンジでカフェや食事を楽しむこともありました。
直接、氏にお目にかかった機会は2~3回しかありませんでしたが、その際のやりとりは今でも記憶に残っているものがあります。
最初は、Bunkamuraがアートマネージャーを養成するセミナーの場でした。1990年代前半だったと思いますが、Bunkamuraの設立・運営の経験をもとに、文化事業と収益事業(ビジネス)を両方同時にマネジメントできる人材を育成するプログラムが創設されました。その第1回に、筆者のような素人(大学生か大学院生もいたような気がします)で参加している人がいる一方、既にJR東日本で東京駅のエキコンを企画・運営していた人や地方で音楽プロデューサーやキュレーターをしている人などプロの人々も受講していました。
セミナーの最終日、数名ごとのグループで音楽や美術などのイベント企画案を作って、講師や他の受講生の前で発表することになっていました。内容は忘れてしまいましたが、あるグループがワンシート・ワンメッセージの紙芝居形式のプレゼンテーションを行い、なかなかの評判を得ました。
その質疑応答の最中に、セミナーのサポートスタッフのひとりが「そんなに紙を無駄に使って…」と模造紙を20枚ほど使っていたことをぼやいたところ、講師で審査員であった田中氏は、明らかに呆れた表情を一瞬、見せたように思えました。
筆者は人材マネジメントのコンサルティングを本業としていたこともあり、このシーンが心に強く残っていました、そこで、後日、別の場で、このときのことを尋ねてみました。
「最終日のプレゼンのとき、スタッフのコメントにダメ出しされようとされていませんでしたか。」
「いやあ、またかと思ったのが顔に出ていましたか」と苦笑されていました。
「よくあるのですか、ああいうことは」
「まあ、彼らも苦労しているし、真面目に仕事に取り組んでいるから、そうそう叱りつけるわけにもいきせん。」
「スタッフの方々も文化事業やセミナーのプロでしょう。やはり、中途で関連業界から採用されたのですか?」
「いいえ、ほとんどが本社からの出向です。あのアートマネージャー育成コースにしても、運営スタッフは昨日まで運転士や車掌だった人たちが大半です。」
「それもすごいですね。出向させられるご本人たちもびっくりするでしょうし、そもそも希望して異動したわけではないでしょう。」
「私も役員(当時、常務取締役)ですから、雇用を守るのも経営の仕事というのはわかります。」
確か、こういうやりとりをしたような記憶があります。
コスト感覚ひとつとっても、あるオペラ演出家との交渉に臨んで「用意していた資金の3年分」を提供することを即決したエピソード(注3)をもつ田中氏には、カルチャーショックを経験し続けるプロジェクトがBunkamuraだったのかもしれません。
その後、社長まで務め上げた氏は、きっとアートマネージャーやプロデュース能力に長けた人材を東急グループの中から育て上げられたのだろうと推測できます。それは、Bunkamuraが渋谷に定着するだけでなく、シアターオーブやセルリアンタワー能楽堂など渋谷地域のカルチャーを発展させる事業を次々に手掛けていることから窺い知ることができそうです。
また、Bunkamuraで公演を楽しむ機会があれば、氏の功績を実感することにもなるでしょう。
【注1】
たとえば、以下のように報じられています。
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201909200000743.html
【注2】
副社長時代に行われたインタビューの記事では、“直遊”という造語で表現されています。
https://www.shibuyabunka.com/keyperson.php?id=18
【注3】
早稲田大学及び早稲田大学生に向けたインタビュー記事のなかで言及されています。
https://yab.yomiuri.co.jp/adv/wol/campus/message_0908.html
作成・編集:QMS代表 井田修(2019年9月23日)