1兆ドルコーチ(3)
(3)経営者としてのこだわり
本書によれば、経営者としてのビル・キャンベルの特徴は、「人がすべて」という一言に尽きるのではないでしょうか。
一般に経営者、特にCEOに就任する人は、自ら起業した会社のCEOになる場合を除くと、財務やマーケティング・営業といった職域や事業部門の責任者を経ることが多く、ビル・キャンベルもその例外ではありません。しかし、通常は数字(売上の利益の絶対額や伸び率、コストカットの削減率、資産・資本などの活用効率など)にフォーカスしてマネジメントに当たるのに対して、ビル・キャンベルはそこで働いている人にフォーカスしてマネジメントを担いました。
彼(引用者注、ビル・キャンベルのこと)は経営者としても、並外れた才能を持っていた。彼はカレッジフットボールのコーチから、5年も経ずにフォーチュン500社企業の上級幹部になった男なのだ。
(中略)その成功のカギとなったのが、(中略)オペレーショナル・エクセレンス(現場の業務遂行力の卓越性)、ピープル・ファースト、決断力、すぐれたコミュニケーション、最も厄介な人材から最大限の力を引き出す、優れたプロダクトへのこだわり、解雇する人を手厚く扱うという原則である。
(「10兆ドルコーチ」124ページより)
「人がすべて」ということをもう少し分解して表現しているのが、引用した部分です。ここで指摘されている7項目について、もう少し見ていきましょう。
はじめの「オペレーショナル・エクセレンス」とは、日本語の説明にあるように、現場の業務遂行力の卓越性ということです。
実際に仕事をするのは経営者ではありません。小規模なスタートアップですら、すべてを経営者が取り仕切ることはできません。まして、一般の企業ともなれば、経営者にできることは極めて限られます。
言い換えれば、現場の問題は現場の社員に任せるしかありません。従って、「ピープル・ファースト」で、仕事をする社員を尊重し、その信頼を得て、個々の力を発揮してもらうのが、経営者の仕事にほかなりません。
ビル・キャンベルはそうした姿勢を経営者や上級幹部はもとより、取締役会のメンバーにも求めました。特に社外取締役として参画する人々に対して、事業運営の実務に精通していることを求めました。反対に悪い取締役としては、「ただふらっと来て、自分がいちばん賢いと見せようとして喋りすぎるやつ」(本書124ページ)と語っています。つまり、取締役といえども、事業運営の実際を経験し、どうすれば会社の運営がうまくいくようになるのか、的確にアドバイスできる人材を求めていたのです。
次に「ピープル・ファースト」ですが、これは反対の言葉を考えてみるといいでしょう。すなわち、“マネー・ファースト”です。
資本主義なのだから、“マネー・ファースト”が当然と考える人もいるでしょう。まして、企業経営でマネーを最優先に考えないのはおかしいとも思えます。
ビル・キャンベルはもともとアメリカン・フットボールのコーチでした。アメフトのようなスポーツであれば、チームの勝利が何物にも優先されるはずです。その勝利を得るには、プレーヤー・ファーストで選手がもてる能力を最大限活用するのが不可欠であることは誰も異論はないでしょう。そのために、監督やコーチが練習やミーティングなどを通じて選手をサポートするはずです。
ビジネスも同様で、“マネー・ファースト”というのはチームの勝利のためにと言っているのと同様に、当たり前のことを表現しているにすぎません。それよりも質が悪いのが、“自分ファースト”という経営者です。経営者自身のプライドや見栄のために、羽振りのいい会社が必要なのです。
「ピープル・ファースト」は、こうしたものとは正反対に、ビジネスがうまくいくように社員の力を最大限発揮してもらう状況を作り出すのが経営者の仕事であるという考え方です。なお、注意したいのは、個人ではなくチームの勝利を第一に考える点です。チームの勝利に向けて、ひとりひとりのプレーヤー(社員)の力をいかに発揮してもらうかが問われます。
「決断力」とは、物事を決めてチームを動かすことです。ビル・キャンベルは、第一原理(ファースト・プリンシプル)に基づいて、物事を決めるのがマネージャー(経営者)の仕事と考えていました。
第一原理とは、「誰もが納得する普遍の真理」であって、「意見には反論できても、通常、原理には反論できない。なぜならすでに全員がそれを受け入れているからだ」(本書98ページ)とされています。
困難な状況に直面した時に改めて第一原理を見い出すこともあるでしょう。その状況において、会社やプロダクトを支えているものを明らかにすること、そしてその原理に基づいて決断を下すことが経営者の仕事である、というのがビル・キャンベルのいう決断力です。
決断力を発揮するには、適切な意思決定プロセスを経ることが要請されます。安心して自由に意見を言える状況を作り、関係する社員の意見はすべて吸い上げて、それぞれの見解を検討します。「しっかり議論すれば、10回のうち8回は、部下が自力で最適解にたどりつくだろう。だが残り2回は君が苦渋の決断を下し、全員が従ってくれることを期待するしかない」(本書97ページ)が故に、経営者は第一原理に基づいて誠実に決定を下すことが求められます。
そして、行動を起こすことがチームにとって重要なのです。一度チームとして決めたことを後日、ひっくり返して行動に移さない人に対しては、厳しい態度をとることも辞さないのがビル・キャンベルでした。個人的な意見や立場の相違にしろ、感情的な蟠りにせよ、決めたことを実行しないというのでは、スポーツでもビジネスでも、うまくいくはずがありません。
「すぐれたコミュニケーション」というと、スティーブ・ジョブズのようなプレゼンテーションの達人を思い浮かべるかもしれませんが、ここではそういう意味ではありません。
ビル・キャンベルはハグの達人でした。自らボディ・ランゲージも活用する一方で、関係する人々を会議中にもしっかりと観察し、問題があれば、その場でも事後にでもアドバイスをするなど、ちょっとした心遣いができる点が、正にコミュニケーションの要諦といえるでしょう。
また、結論がわかっていると経営者やマネージャー自身が思っている時ほど、最後に発言するように奨励していたことも、自らの経験に裏打ちされたコミュニケーションのコツだったのでしょう。そうすることで、まず、関係する人々全員の意見を出すことができますし、それらを踏まえた上での意思決定が可能となります。
つまり、コミュニケーションといっても、何らかのコンセンサスを形成することを目指すのではなく、関係する人々が次々に主役を演じていくアンサンブルのようなものをコミュニケーションの理想としていたものと思われます。
「最も厄介な人材から最大限の力を引き出す」というのは、いわゆる天才的な人材(本書では“ディーバ”とも“傲慢なスター”とも“規格外の天才”とも呼ばれている)で、グーグルでいうところの“スマート・クリエイティブ”(注2)に通じる人材のことでしょう。
重要なのは、挙げた実績がいかに会社にとっても顧客にとっても多大な貢献であったとしても、自己アピールや自己宣伝が過ぎたり、昇進や昇給などで過大な要求をしたり、ナルシストでいつも自分に注目が集まっていないと気が済まないような、そういう人材は功罪を冷静に分析して対処することです。
いかに天才的な人材であったとしても、そのマイナス面がいつになっても改善されないのであれば、マネージャーや経営者として必要な措置をとることも躊躇してはなりません。要するに、経営陣や同僚や部下に及ぼしているダメージを大きく上回る価値をもたらさない限り、寛容になったり守っていくことは不要という考え方であり、マネジメントの原則でもあります。
これこそ、アメリカンフットボールを通して絶えず実感していた教訓だったのではないでしょうか。チームスポーツで、特定個人にばかり注目が集まり、勝利を支えた他のプレーヤーやチームスタッフの存在が蔑ろにされたのでは、チームが成立しないのです。
「優れたプロダクトへのこだわり」も、経営者としてのビル・キャンベルの特徴の一つです。会社が何のためにあるかというと、プロダクトのビジョンを実現するためにあり、それを担うのは人、特にエンジニアであることを、コダックやインテュイットでの経験から知っていたのでしょう。
技術オタクであるエンジニアたちと直接話ができることが、ビル・キャンベルの強みでもあります。自らは技術やプロダクトを開発することはできなくても、それを実現する可能性のある人材(エンジニア)をやる気にさせて、もてる力を最大限発揮させるのに、CEOや役員が自らが直接語り合うというのは、またとない機会です。ここにも、「すぐれたコミュニケーション」がマネジメントにとっていかに重要であるのかが示されています。
最後に「解雇する人を手厚く扱う」という原則は、経営には失敗や見込み違いは付きものであり、特にスタートアップやテック系の会社ではよくあることとはいいながら、本当は避けたいものです。
失敗から経営者自身が学ぶ前に、事後処理をしなければなりません。つまり、できるだけ早期にリストラを行うのですが、リストラをする際にも「ピープル・ファースト」ということを忘れてはなりません。むしろ、リストラのような苦境にあってこそ、「ピープル・ファースト」の真価が問われるのです。
リストラをする際に、支払うべき退職(解雇)手当の金額や他の退職パッケージを財務的に可能な範囲で手厚くすれば、それでよいわけではありません。最も重要なのは、解雇対象となる社員へのリスペクトを忘れてはならないことです。それは、単に言葉だけの問題ではなく、支払う退職(解雇)手当が労働市場において競争力のある水準を保障したり、次の就職先を斡旋するなど非金銭的支援においても充実させるといった施策に現れてくるものです。
このように辞める人を手厚く扱うことは、会社に残る人々の士気を保ち、精神的安定をもたらすうえでも重要であることは、今ではテック企業を中心に広く知られています。そういう常識をもたらしたのも、ビル・キャンベルが自らの経営経験から生み出したアドバイスのひとつと言えます。
以上の7原則(オペレーショナル・エクセレンス、ピープル・ファースト、決断力、すぐれたコミュニケーション、最も厄介な人材から最大限の力を引き出す、優れたプロダクトへのこだわり、解雇する人を手厚く扱う)は、ビル・キャンベルが企業経営とアメフト・コーチの経験を通じて得た経験と学びのエッセンスとも言えます。
【注2】
スマート・クリエイティブについて詳しくはこちらを参照してください。
文章作成:QMS代表 井田修(2019年12月17日更新)