民事裁判入門~裁判官は何を見ているのか~(3)
(3)心証形成を意識したコミュニケーション
裁判に限らず、相異なる立場から自らの主張を相手に訴えて認めてもらわなければならないことはよくあります。それは一般のビジネスにおいても日常生活においても同様です。たとえば、いくつかのサプライヤーがコンペに提案書を出して競う場合もそうですし、小さな兄弟が「悪いのは〇〇」と自分が先に手を出しておきながらも、別の子のせいにしようと親に言い張るシーンでも同様でしょう。
そうした場合、サプライヤーの意思決定者や子供たちの言い分を聞く親のように、裁定を下す立場にある人はどのように判断を下すのでしょうか。その心理的なプロセスを理解せずに、提案書を書いたりプレゼンを行ったりしても勝ち目はありません。裁判官もそうした裁定を下す立場にあります。
民事訴訟は、法社会学的にみれば、原告と被告がそれぞれのストーリー(法的な評価、枠組みにおける事実の集合体が一つの「ストーリー」となる)を掲げての争いであり、その食い違う部分、ことに重要な部分が、主要な争点となる。
そのストーリーがどれほど確からしい必要があるかという点については、やはり、原告と被告では一定の差がある。原告は基本的にそのストーリー(その要点は、多くの場合、請求原因およびこれに関連する事実)について裁判官に一定の確信(中略)を抱かせなければならない(中略)が、被告のストーリー(その要点は、多くの場合、請求原因に対する積極否認、ないしは抗弁の内容)は基本的に原告のそれをぐらつかせる程度の信憑性があれば足りるわけであり、被告勝訴の場合でも、裁判官が被告のストーリーに沿った心証を得ており、それが判決に記されるとは限らない。
もっとも、実際には、「原告の主張は事実と認めることはできない。かえって、〇〇の証拠によれば被告主張の事実が認められる」としてこれが判決に記されることはかなり多い。(「民事裁判入門 裁判官は何をみているのか」211~212ページより)
要は、最初に主張するほうが相当程度にしっかりとした主張を行うことが求められるのに対して、反論する側は、主張の主な論点についてしっかりとした反証・反論を行うことができればそれでよいし、相手の主張に疑問・疑義を差し挿む余地があることを示すことができるだけでも、十分に有効な主張となるのです。
弟が「お兄ちゃんが先にぶった」と訴えても、兄の方が手を出した理由(弟が兄のおもちゃを壊したとか)や弟の主張の弱い点(頬をぶったはずなのにその跡が弟の顔にないとか、弟はお兄ちゃんがぶったと祖父母や親に泣きつくことで甘えることができるという利得を常習的に得ていることなど)を兄が衝くことで、弟に訴えられた親の心証は大きく変わるかもしれません。
実際の裁判では、そもそも原告の主張が首尾一貫していないとか、原告の提示する事実(書証や自らの証言など)と矛盾する点があるなど、そもそも原告の主張自体が裁判官を説得できるだけのものとなっていないケースも少なくないようです。なかには被告の主張や反論を強く認めるものもあるでしょうし、被告の勝訴というよりも、自らの主張を整理しきれないまま提示した原告の自滅ということもあるのでしょう。
これらは、事実関係や法律論の争いに至る前に、既に裁判官の心証がどちらかに傾いていることが間々あることを示唆しています。
では、そうした心証とはどのように形成されるものなのでしょうか。
事実認定自体は直感的、総合的判断作用だが、それを後から検証する(頭の中で検討し直してみる、ことに判決書を書く作業としてこれを行ってみる)時点では、直感による認定について、演繹的、三段論法的な検証が行われているとみてよいと思う。(中略)
事実認定は、「心証形成過程」と連続なものである。暫定的な心証形成の過程がその時々で揺れ動きながら、最終的には定まったかたちに収斂してゆく。つまり、民事訴訟における審理の過程は、裁判官の頭の中では、最終的な事実認定に向けての心証形成過程なのである。(「民事裁判入門 裁判官は何をみているのか」208ページより)
本書によれば、事実認定のプロセスと何らかの心証が形成されるプロセスとは動態的なものであり、事実認定が最初にあり次に適用する法があって最後に原告または被告の主張が正しいという心証が形成されるといった三段論法的なものではないそうです。
確かに裁判以外の場面においても、私たちが「この人の言っていることは正しい(真実を言っている)」といった心証を形成するには、その人が言っていることをすべて理解して、次にその裏付けとなる事実関係を調べ上げて、最後に言っていることと事実関係を照査して初めて正しいとか正しくないといった心証が出来上がるわけではありません。
現実には、そもそも言っている内容が正しいかどうか以前に、言っていることが前回と今回で同じことであるとか大きな矛盾点がないといった、一貫性とか合理性がある主張であるかどうかを判断するのではないでしょうか。そのうえで、主張している内容が他の情報と照らして事実かどうかを部分的ではあっても、判断できそうなところから判断することになるでしょう。
言い換えれば、主張の合理性や一貫性で当初から形成される「この主張は正しい」という心証が、次は主張が事実であると判断されることで「やはりこの主張は正しい」という心証へ強化されていくのです。反対に、当初の主張におかしな点や不合理な点があったり、言っていることが二転三転するようであれば、「この主張はとるに足らない」とか「これは信用できない」といった心証が形成されるのです。
ビジネスにおけるコミュニケーションにおいても同様です。主張がコロコロと変わるようでは、相手が主張を聞き入れてその内容が正しいかどうかを事実関係や法律論から真剣に検討しようとする心理状態に至るようになるとは思えません。少なくとも、こちらの主張に耳を傾ける価値はありそうと相手に思ってもらう程度の心証をまずは形成することに意を用いるべきです。
そのためには、主張するにせよ反論するにせよ、その内容に合理性や一貫性があることをしっかりと理解してもらうことを最初の目標として、陳述したり書面を作成したりする必要があります。事実関係や理論的な解説は、その次の段階で改めて整理して説明することで、当初の主張を裏付けたり補強したりすればよいのです。
商談にせよ、プレゼンにせよ、何かを説明し主張しようとするのであれば、まずは、こちらの話を聞く耳を相手に持ってもらわなければなりません。その話がある程度まで進んだ段階で、「まともな話だ」とか「この話は信用してもいいのでは」といった心証をもってもらうことができれば成功です。このような心証が形成されて初めて、数字や事実による裏付けやしっかりとした論理構成などが評価されるのです。コミュニケーションにおいては数字や論理が先にあるのではないことに注意を要します。
文章作成:QMS代表 井田修(2020年9月7日更新)