コロナ禍を考える二つの戯曲~「白い病」と「疫病流行記」を巡って~(4)
さて、今、「白い病」や「疫病流行記」を上演するとしたら、どのような作品になるのでしょうか。しっかりとソーシャル・ディスタンスを保ちつつ換気に申し分のない野外劇でしょうか、台詞や歌唱がない無言劇でしょうか、それとも、文楽や人形劇のように台詞や音楽と動きを分離した演劇でしょうか。
劇場という閉鎖的な狭い空間に観客を詰め込むこと自体が密の空間を作り出してしまう以上、感染症のリスクを現実に低減できないうちは、旧来の上演形態に復することは容易でないでしょう。映画館もそうですが、客席にアクリル板を持ち込んで客席を個室化するというのも、透明で見通せるからよいというものではありません。
もちろん、Zoomなどを活用してリモート公演を行う演劇やライブもありますが、同じ時間・空間を共有する体験としての演劇やライブの面白さや興奮を実現できているかというと、まだまだ難しいようです。
ちなみに、「疫病流行記」の公演では、次のように客席や観客を分割して、すべてのステージには目が届かないようにすることで、観客の想像力に演劇の全体像を委ねる意図が寺山自身にあったようです。
「疫病流行記」で、私たちは、二つの「物」を提供した。一つはカーテン(黒幕)であり、もう一つは機械である。従来の劇場では、カーテンはステージと客席を分断するだけの役目だけしか持っていなかったが、「疫病流行記」では、幾重ものカーテンが客席と客席、ステージとステージをいくつかに分断し、密室化している。
次第に分割され、黒幕によって孤立させられた観客と、一つの状況が、カーテンによってジグゾー・パズルのように切り離されたステージ。それらを再び全体性の中で回復しようとする観客の想像力が、この演劇の「主役」である。(『新装版 寺山修司幻想劇集』「解題」424ページ)
全体が見えない中で演劇の断片から全体を想像する、この観客の姿こそ、実はコロナ禍のような重大な感染症が蔓延している状況に置かれた我々の姿ではないでしょうか。ステージを分割するカーテンこそありませんが、感染状況は目に見えず、PCR検査などの感染状況を可視化するはずのツールも全数検査ではないため、いつになっても全体像が把握できないままです。
人々の交流もままならない状況が続いている現在、「疫病流行記」の公演で“孤立させられた観客”と同様の状況に置かれているのが私たちです。
演劇公演は一定の時間が過ぎれば終演となり、日常の世界に戻ることができますし、他の観客と話し合うことによって、見えなかった(想像で補うしかなかった)部分を観客同士で埋め合うこともできます。
しかし、現在のコロナ禍では、見えない部分は想像するしかありません。その想像というのは、寺山が言う観客の想像力ではなく、いつ病気の当事者となってしまうのかわからない一般人の不安と困惑が引き起こすものです。
一般人は金を払って演劇体験をするためにここにいるわけではありません。ここで日常の生活を送っているのです。故に、不安や困惑にひとたび火がつけば、騒乱や暴動につながる虞が十分にあります。
一方、寺山は、他の作品でもこうしたアプローチで演劇を観客の想像力によって再生させる試みを展開しています。その一例として「地球空洞説」(注6)という街頭劇があります。
「地球空洞説」は、(中略)1973年8月、東京都杉並区高円寺南5-11-7の空地で、街頭劇として上演された。空地には天幕の見世物小屋がたてられたが、劇はすべて天幕の外で行われ、近くの町内会の銭湯やアパートにまでおよんだ。
市街劇が無限に拡散してゆく過程で、私たちは、一度、見世物的な街頭劇をやってみよう、と思い立った。杉並区高円寺の、ごくありふれた児童公園を用いて、実在の町内会の、実在のアパートの中から一人の青年があふれ出した、という設定である。(『新装版 寺山修司幻想劇集』「解題」409ページ)
筆者は、この街頭劇を直接体験したわけではありませんが、その模様を記録したフィルムは見たことがあります。非日常空間であることを暗黙裡に共通認識としてもっている舞台という空間から、日常の街のさまざまな場所において、ゲリラ的に展開される演劇に、街頭劇が行われることを知らない一般市民はもとより、そこで演劇が行われることを事前に知って体験しに来ている観客さえも、かなり戸惑っているように見えました。
コロナ禍は市街劇ではありません。もちろん、舞台で上演される芝居でもありません。現実であるはずなのに、今回ご紹介した二つの戯曲ほどのリアリティを感じることができないのは、筆者だけでしょうか。
「白い病」は、病院(院長の診察室、患者の収容施設など)、市民の家、男爵や元帥の執務室など、壁に囲まれた室内が主な場面となっています。コロナ禍で外出が制限される現代の人々にとって、こうした壁に囲まれた室内は舞台ではなく現実です。そのためか、筆者には「白い病」で描かれている世界のほうが、実際の疫病であるかのように思われて仕方がありません。
このように、疫病に関する演劇の舞台装置が、現代の疫病(コロナ禍)では現実の装置として機能していることに気づかされます。言い換えれば、我々は気づかないうちに、ダラダラとして盛り上がりに欠ける不出来な演劇「コロナ禍」の登場人物のひとりとして、既に役を演じているのかもしれません。
作成・編集:QMS代表 井田修(2021年4月2日更新)
【注6】
以下のものに寺山修司が行った市街劇や「疫病流行記」の公演について記録・紹介されています。46分14秒より「地球空洞説」、1時間7分50秒から別の市街劇「ノック」、1時間18分30秒から「疫病流行記」があります。