「古代ローマ帝国軍 非公式マニュアル」にみる普通の人を戦力化する要諦(3)
軍団に入隊したばかりの新兵を待つのは、兵士として戦うことができるようになる訓練です。この訓練を疎かにしては、ローマ軍団の兵士として戦力にならないどころか、実際に戦闘が起こったら確実に死ぬことになります。
鋭い刃という死神が目前に迫ったとたん、がぜん全身に力がみなぎってきて、最初の数分間は剣と盾が魔法のように軽くなる。最初に剣と剣がぶつかったあとは、頭を空っぽにして戦いに没頭できるようになる。(中略)重い剣で木柱を相手に何時間も訓練してきたのはむだではなかったと思う瞬間があるだろう。あれがなければいまごろは、おそらくは蛮族の刃の助けもあって、剣を持つ腕が疲れて落ちていただろうと。
(「古代ローマ帝国軍 非公式マニュアル」(フィリップ・マティザック著、安原和見訳、ちくま学芸文庫、2020年筑摩書房刊の日本語翻訳版)254~255ページより)
カリガ(注3)を履き、チュニック(筒形衣)の上から鉄製の鎧を身に纏い、頭にはこれも鉄製の兜を被り、片手に盾をもち、武器として槍(ピルム)と剣(グラディウス)を帯びているローマ兵は、日常の訓練がなければ戦うどころか、任地や紛争地に赴くことすら儘なりません。現代の一般人が同じものを身につけたならば、多分、立ち上がるのが精一杯ではないでしょうか。
きっとローマの軍団に入隊したばかりの普通のローマ人にとっても同様だったでしょう。今も昔も、一般人に訓練を施して戦う兵士に鍛え上げる必要があります。
そのために行われるローマ軍団の訓練には主に次の5種類があります。
・行進
・柱相手の戦闘訓練
・ピルム訓練
・跳馬
・演習
訓練としての行進は、最初は武装なしで20マイルを5時間(注4)で歩きます。軍団として落伍者がなくできるようになったら、次に40マイルを12時間(注4)で歩きます。そして、完全武装の状態で20マイルの行進を改めて行います。現代であれば、武装なしでも隊列を乱さずに新入社員の集団を30㎞も歩かせたら、入社時研修の初日で全員退職することは確実です。しかし、ローマの軍団は行進をするのが第一の仕事ですから、できて当たり前になるまで練度を上げる必要がありますし、それについてこられない者はローマ兵にはなれません。
柱相手の戦闘訓練は、実戦で使う鉄製の剣と金属と重ね合わせた板でできている盾よりも重い木製の剣と盾で行います。それらの武器を両腕にもって、木の柱を相手に剣や盾の使い方を繰り返し練習します。その結果、実戦では武器が軽々と扱えるようになります。
ピルム訓練も剣と盾の訓練と同様に、実戦よりも重い槍(ピルム)を二人一組で投げ合って取り合います。当然、槍の穂先は当たっても怪我をしないように鋼ではなく皮が覆っているものを用います。
跳馬は、主に敏捷性を鍛える訓練です。重い鎧を身につけたまま、兵舎に備え付けの跳馬に飛び乗ったり飛び越えたりすることで、戦闘中に梯子に登ったり堡塁を飛び越えたりするための練習を行います。それらができると抜き身の剣や槍をもったまま跳馬に挑むこともあります。ちなみに、跳馬訓練で優秀と認められると、軍団の騎兵隊に配属替えとなり、本物の馬に乗るチャンスが得られることもあります。
以上の4種類の訓練は兵士個人の訓練ですが、集団としての兵士の訓練もあります。それが演習です。練兵場や野原で、陣形(縦列、楔型、円形など)の組み方・変え方、隊列の立て直し方、他の部隊との交替のやりかたなどを上官(教官)の命令通りに動くことを徹底的に習得させるものです。
こうした訓練を日常的に行うことを通じて、一般の人々が屈強なローマ兵になっていくわけです。古代ローマで戦うには、重い鎧や兜を身につけて槍を遠くの敵に投擲し盾で打撃を防ぎ剣で敵を刺すために、体幹を鍛えて四肢の筋力を増すことが不可欠です。そこで、訓練自体は細かな戦術を身につけるというよりも、基本的なことを繰り返して徹底させるものが中心です。
これは現代の組織で普通の人々を戦力化する際にも重要なポイントです。つまり、その組織での仕事のやりかたの基本を徹底するということです。その際に現実の仕事ではありえない負荷をかけて訓練するほうが、現実の仕事に直面した時に仕事を軽くこなすことができるでしょう。現代のスポーツ選手なども、日常のトレーニングにおいてより負荷を多くかけることで本番の試合で実力が出せるようにしています。もちろん、現代の組織での仕事ですから、物理的肉体的なもので負荷をかけたり反復して練習したりすればよいというわけではありません。
ここでは、組織の基盤となるシステムやカルチャー、仕事を進める手順やプロトコル、人々の価値観・行動規範・ものの考え方など、仕事をする際にベースとなるさまざまなもののなかで、何が基本であり、何が徹底すべきものなのかを明らかにして、新たに入社してきた人や仕事上の関係者にしっかりと身につけてもらうことが要請されます。訓練とは、それらを身につける標準的なプロセスのことであり、徹底すべき基本は前職での経験や年齢・教育などのバックグラウンドに関係なく反復練習を通じて身につくまで徹底的に練習することが求められるのです。
身につけるべき基本の具体的な内容は、組織によって、また同じ組織であっても環境変化や戦略の違いによって、異なるはずです。たとえば、ロジカルシンキングと指標の数値化を徹底して目標達成を至高の価値として追求する企業もあれば、多様な価値観を受容し「楽しくなければ仕事ではない」とばかりにユニークなプロジェクトに次々と取り組み、儲けよりも顧客や従業員の満足度向上を重視する会社があってもいいはずです。
大事なのは、どちらの組織が正しいかではありません。どちらにしても、そこで仕事をしていく上で、何が基本であるのか、そして基本を徹底するにはどのように訓練を行って現実の仕事につなげていくのか、ということを意図的に実施していくことです。
ローマの軍団の訓練は、実際の戦闘で死なずに勝つために必要なことを、行進・柱相手の戦闘訓練・ピルム訓練・跳馬・演習を通じて基本を身につけさせるものでした。同様の明確さと徹底さをもって訓練を行えば、現代の組織も普通の人を相当な戦力に引きあげることが可能なのです。
【注3】
カリガというのはローマ兵の靴のことで、現代のサンダルのような構造になっていて、革ひも(甲革)で留めるようになっています。底には鋲があり、泥や血液などで滑らないようになっています。
【注4】
20マイルを5時間ということは、古代ローママイル(1マイル=約1.48㎞)とすれば時速約5.8㎞、40マイルを12時間では時速約4.9㎞となります。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2021年7月20日更新)