「古代ローマ帝国軍 非公式マニュアル」にみる普通の人を戦力化する要諦(4)
ローマ帝国の軍団といっても、毎日々々戦闘行為に従事しているわけではありません。むしろ、戦闘行為に従事しない日々の方が圧倒的に多かったはずです。出撃命令が発せられて、敵がいる地域に進攻していくにしても、行軍や各種の工兵活動に費やされる時間のほうが多いでしょう。
戦闘という軍団の本来業務に充てる時間よりも、それ以外のことに当たる時間、その大半は来る日も来る日も同じようなことを行う日々が大半を占めます。そうした日々のルーティーンをきちんとこなすことが、いざという時に戦力として働くことができるかどうかにつながります。
軍団にとってのルーティーンとは、次のような日課を滞りなくこなすことです。すなわち、起床、朝食、朝礼、歩哨、雑役、訓練、夕食、装備点検、入浴・就寝、夜警です。どれも、特殊な才能が必要であったりアドレナリンを放出して一心不乱に集中して取り組んだりするようなものではありません。普通の人々の日常に過ぎません。
起床は雄鶏が時を作るよりも早いと言われるように、早朝から起きて、部屋を片付け、洗顔や髭剃りなど身だしなみを整えることが求められます。規則正しい生活の第一歩が早起きと身だしなみです。
朝食はチーズと冷肉の軽いものだったと思われますが、軍団としての基準を満たしている必要があり、高級将校が監視・監督して供されるもので、手を抜くことは許されません。起床や朝食は現代にも通じるポイントでしょう。
朝礼は、整列、点呼、重要事項(皇帝や総督からの書状など)の発表、当日の命令・指示、合言葉の発表など、1日で最も重要な仕事と言える内容をもっています。
全体の朝礼の後、担当する職掌グループに分かれて小規模な朝礼が行われることもあります。一般の兵士であれば、上官である百人隊長の下に集合し、その日の当番や訓練などを指示する通常の集会に参加するでしょう。病院施設での患者の呼集、懲戒のための聴聞会といった特別な集会が開かれることもあります。
歩哨は、文字通り、陣営の門、堡塁、倉庫、穀物庫、病院など軍団のさまざまな施設で警備に立つこと、及び司令官や監督官が見回りをするのに同行することです。通常は、これといった事件も起こらず、退屈な時間を過ごすことになります。現代でも、定例業務は退屈な時間となりがちです。
雑役は、軍団陣営の保守管理作業で、清掃、倉庫手伝い、浴場の釜焚き、厩舎やトイレの掃除などです。簡単な軽作業もあれば、かなりハードな重労働もありますが、その割り当ては上官の百人隊長の差配によります。この差配のために、百人隊長に金銭を提供して軽い作業にしてもらうことは往々にして行われていたそうです。
訓練には、カンプスという野外訓練とパシリカ(教練広場)やルドゥス(円形劇場)という施設訓練があります。カンプスでは、陣形を組んでの行進や戦闘、複数の部隊による模擬戦、陣地を築く土木作業、陣地の攻防戦、水場での水泳訓練などが、パシリカやルドゥスでは、前回ご紹介した柱相手の戦闘訓練、円弧を走る訓練、日常の姿から完全武装まで手早く整える練習、完全武装で溝を飛び越える訓練などが、それぞれ一日中行われます。
夕食には、ワイン、肉(種類は地域によって異なります)、チーズ、パン、ビール、ガルム(魚醤の一種)などが定番のメニューだそうです。これらの食料は、軍団が駐屯する現地で調達するもの(注5)もありますが、ローマから現地まで輸送して入手するもの(ワイン、チーズ、小麦粉、ビール、ガルムなど)も多くあります。
こうした食料を安定的に確保することも、ルーティーンを維持し回していくのに不可欠です。そのためのロジスティックスとして、ローマの道を整備したり、補給隊の安全保障を軍団の騎馬隊などが担ったりしています。ローマの軍団以外では、食料の調達は現地での略奪によるものも珍しくはありませんが、それではローマの軍団のような安定した戦い方ができません。
装備点検は、夕食後に行われます。対象は武器類だけでなく、食器などについても上官がチェックします。そのため、日頃から武器類の手入れを怠らないのは当然で、食器などの日用品については時には点検用と実際に使用するものを両方用意することもあるようです。
夕食後に特に用事がなければ、入浴してその日の訓練などによる疲れをとって就寝となります。通常は翌日も歩哨・雑役・訓練などが待っていますが、時には休日・休暇もあります。
夜警は、当番制で夕食後から行われます。軍団が置かれている地域は、ローマから遠く離れた場所ですから、周囲に敵や盗賊のような存在があるものとして、夜警は必須です。兵士が交替で夜警につくことで、相互に安全を保障し合うことになります。
一般の兵士にとってのルーティーンは以上のようなものですが、このほかにも軍団としてのルーティーンにはさまざまなものがあります。たとえば、軍団陣営の建設、陣営外の道路や建物の建設・補修、財務管理、食事や医療の提供、各種の事務管理などです。特に事務管理は現代の大企業や地方自治体並みの量と精度が求められ、兵士一人ひとりの勤務簿(毎日の勤務内容や休日休暇の記録)・報奨や懲罰の記録・年金帳簿及び年金原資の管理などに始まり、軍団旗の保管、各種の命令書・指示書の記録、食料の在庫記録、医療記録、死亡・除隊の記録など、多岐にわたります。
現代のようにアウトソーシングや専門事業者による業務代行サービスなどがまったく存在しなかった時代のこととはいえ、ローマの軍団のルーティーンの量と種類の多さには驚かされます。
ここまできちんと処理しているという日常があるからこそ、いざ戦闘となった時に他に気懸りなことがあまりなく、戦いに集中できることは間違いないでしょう。反対に、自分に関する記録がいい加減であったとすれば、戦いのどさくさに紛れて金品や武器類や馬などを盗んで逃げたり、他の人が頑張っている陰に隠れて手柄だけは自分のものにしようとしたりすることが予想できます。それでは、士気の低い集団としかいいようがなく、広範な版図を維持する抑えとしての軍団としては機能しないでしょう。
振り返って現代の組織を考えてみましょう。
海外赴任や転居を伴う転勤及び鉱産物や農林漁業などの一次産品の産出に直接的に関わるような例外を除いて現代の組織の大半は、組織だって生活拠点を整備することはありません。ただ、在宅勤務やワーケーションなどリモートワークがある程度まで一般化し、従来のように定時にオフィスに出社し働く人々は同じ時間と空間を共通するのが必ずしも当たり前のこととは言い切れなくなってきた今は、生活拠点や休暇先などオフィスではない場所をオフィス化する必要性も出てきています。
そこで、改めて安全保障を組織的に行う重要性が出てきています。もちろん、現代では物理的というよりもIT上のセキュリティが重視されますが、安心して働くことができる環境を整備するという点では、ローマの軍団も現代の組織もルーティーンをしっかりとこなすことが肝要です。つまり、ローマの軍団における朝礼・歩哨(退屈なルーティーンワークの代表例)・雑役・訓練に相当することを日々徹底することです。
特に朝礼は、組織のミッションやポリシー、事業戦略や解決すべき課題などを共有する仕組みとして、現代でも有効です。この点は、コロナ禍でリモートワークに移った企業の中で、従来は行っていなかった朝礼についてZoomなどを通じてリモートで行うように取り組み始めたところが出現したことからも明らかです。
もう一つ忘れてならないのが、訓練を徹底することです。現状はコロナ禍で、直接的なコミュニケーションを通じての指導やOJTが極めて機能しにくい状況にあります。そこで従来の方法に変えて、リモートでも相談しやすいITツールを導入したり、自己学習が可能な教材を映像や文書のファイルでいつでもどこからでも学ぶことができるように整備しておき、身につけるべき知識やスキルを共有するように促すことが求められます。より使いやすい教材を生み出した人を表彰したり、身につけた知識やスキルを本人がチェックして達成度を目に見えるようにしておいたりするなど、自己学習を促進する環境作りに経営者や管理職の仕事の力点を置いていきたいものです。
【注5】
軍団兵の任務の一つに狩猟があります。これは、雑役のひとつとして狩猟隊に参加する兵士が、その地で獲ることが可能な獣肉(シカやイノシシなど)を確保してくるものです。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2021年7月27日更新)