「人材版伊藤レポート2.0」を読んで(4)
「人材版伊藤レポート2.0」と一昨年公表された「人材版伊藤レポート」との最も大きな違いは、個別企業の事例紹介(注5)についてです。前回紹介された具体的な企業事例は日立製作所1社のみでしたが、今回は19社もあります。ソニーグループや日立製作所も製造業の範疇に入れると、19社中12社が製造業で、他は総合商社2社、保険業2社、流通・通信・サービス業が各1社ということで、いささか製造業に偏っていますが、大手日本企業が人的資本経営に取り組んでいる現在の姿を見るには十分でしょう。
こうした事例集を前にした際に最初にチェックしたいのは、それぞれの企業ならではの課題設定、挙げることができた成果、分析のアプローチや手法、レポートにおける表現など、企業の独自性に関する事項です。
たとえば、以下のような独自の表現が見られます。
旭化成
(経営戦略実現に向けて必要な人財のうち採用や育成で確保できない人財については、)M&Aを通じた人財の獲得や、コーポレートベンチャーキャピタルや少額投資を通じた企業とのコネクション強化により対応している。
(『実践事例集』7ページ)
‐人材確保の手段としてM&AやCVCを活用するのは海外ではよく見受けられますが、日本ではまだまだ少ないかもしれません。投資先企業から人材を引き抜くのはさすがにタブーかもしれませんが、投資先で難しい仕事(タフ・アサインメント)に挑戦する機会を得ることで人材成長の場とすることは、投資先にとってもメリットがあります。
伊藤忠商事
「三方よし」の価値創造を支える「働きがい」と労働生産性を創る人材戦略と明確なKPI
(『実践事例集』14ページ)
‐近江商人をルーツとする企業らしい表現ですし、それを現在に活かすには社員の働きがいが不可欠であるとともに、労働生産性を明確なKPIで捉えることも必要です。ただ、本社単体での労働生産性(社員数及び連結純利益の動向)がKPIとして妥当かどうかは議論が分かれるところでしょう。まして、大学生の就職人気企業ランキングや政府による表彰(「女性が輝く先進企業表彰」における内閣府特命担当大臣(男女共同参画)表彰)が、「三方よし」の価値創造を支える「働きがい」と労働生産性にどのようにつながるのか、論理的でわかりやすく説明し、退職者や就職希望者を含めた社員全体(グループ企業の社員はどこまで視野に入っているのか不明)や市場関係者に十分に理解されているのでしょうか。
オムロン
社員自ら目標を立てる(旗を立てる)過程で、企業理念を浸透
(『実践事例集』23ページ)
‐目標設定というのは一般的な表現です。目標を立てるではなく、「旗を立てる」ということで、自分でそこに旗を立てるイメージが湧きやすいでしょう。
キリンホールディングス
女性社員がライフイベント前に職務経験を積む「早回しのキャリア形成」や、リーダーを目指すためのスキルと機会を醸成する「キリンウィメンズカレッジ」などにより女性リーダー比率が2013年度比で2倍以上に上昇した。
(『実践事例集』33ページ)
‐キリンの事例は特に女性社員について言及していますが、リーダーを育成し自ら成長していくには、できるだけ早期に成長の場を設けることが重要です。また、施策の結果を示すことも重要です。
KDDI
中核を担うDXコア人財をKDDI DX Universityで500名育成することを目標としている。
(『実践事例集』36ページ)
2020年度新卒採用から、初期配属領域を確約するWILLコースを導入した。初期配属を確約しないOPENコース(業務系・技術系)と併せて実施している。
(『実践事例集』37ページ)
‐人材のイメージ(求められるスキルや適性など)がはっきりしている上に具体的な数値目標が明示されたり、ジョブ型雇用といった一般的な表現ではなくWILLコース(自らの意志でコースを選ぶという意味でしょう)という呼称を用いたりするなど、企業独自の捉え方が窺えます。
サイバーエージェント
事業モデルが変わっても、「結果を出す」人事
(『実践事例集』38ページ)
① あした会議 ② 次世代抜擢枠 ③ ボスチョイス ⓸ 新卒社長
(『実践事例集』40ページ)
‐この実践事例集のなかで、合併で成立した企業を除いて創業後の歴史が短いという意味で最も若い企業であり、唯一のサービス業であるためか、独自色が強く出ています。特に、「結果を出す」人事というのは旧来の人事にはない視点かもしれませんが、結果を出し続けることが経営として求められる以上、最も強く意識すべきポイントです。
双日
人材KPIにより人事戦略・施策を「見せる化」し、経営戦略と連動した人的資本経営へ
(『実践事例集』42ページ)
「双日プロフェッショナルシェア株式会社」「双日アルムナイ」を2021年4月に設立
(『実践事例集』44ページ)
‐「見える化」ではなく「見せる化」というのは、社員一人ひとりを資本化するのに必要な工夫かもしれません。KPIなどで理解しやすい形に人事戦略や人事施策を展開し、その流れを自覚して自分の仕事や学習などを変えていく人こそ、人的資本と呼びうる人材でしょう。KPIなどにより目で見て頭でわかっていても、行動がついてこないようでは人材とは言えません。こうした人材=人的資本という見方は、社員がどこに属しているかせよ、事業に資するものはいつでも活用しない手はないのです。そこに人材のシェアやアルムナイの必要性があります。
ソニーグループ
(グループCEO、グループCHRO、事業CEO、事業CHROを顔写真入りで紹介)
(『実践事例集』48ページ)
‐D&Iのプログラムを設計・運用してトレーニングなどをどんなに実施したところで、現実にCEOやCHROが誰であるかが最もわかりやすい指標かもしれません。その点、顔写真(できれば自己紹介する映像も)入りで経営幹部を知ることができれば、会社がD&Iに取り組む姿勢を最もわかりやすく説明していることになります。こうした実践的なヒントを得ることができれば、事例集をまとめる意味があったと言えるでしょう。
丸井グループ
10年以上かけて、「手挙げ」文化を醸成
4,500名以上が成長機会に自ら参画
執行役員をリーダーとする「共創チーム」を組成し、スタートアップとの共創を推進。
(『実践事例集』63~64ページ)
‐対話ルールを設けたり、アンコンシャスバイアスに関する研修などさまざまなダイバーシティ施策を講じるなどして、安心して自ら手を挙げる文化を醸成することで、新しい価値を創る方向に変えている最中と思われます。
ロート製薬
カムバック入社(外部で更に多様な活躍をしてネットワークを構築した人財が再度ロートで新たな挑戦機会を得ることも歓迎)
(『実践事例集』80ページ)
‐会社との雇用関係が一度切れても再び雇用されることもありうるというのは、ベンチャーや一部の業界では昔から慣行としてありましたが、伝統的な大手製造業では、皆無に等しいものでしょう。しかし、人的資本を企業に創造するには、それにふさわしい人材であれば、他社にいようが自社を退職した人であろうが、取り込むべきものは取り込むべきです。企業経営上必要=戦略上不可欠=であるならば、過去の経緯は無視して人材を獲得しなければなりません。もちろん、それだけの価値のある人材(ロート製薬の表現を借りれば「多様な活躍をしてネットワークを構築した人財」)であることが前提です。
こうした独自の表現が見られる一方で、どの企業にも当て嵌まる一般的な表現に終始している企業の事例も散見されます。人的資本経営の教科書としては望ましい内容が記述されてはいても、その企業独自の経営課題が見えず、人的資本経営がなぜ求められるのか不明な例もあります。なかには、少数ながら、自画自賛かと思わざるを得ない内容を含んだ事例も見当たります。第三者の企業経営者やCHROなどが見ても、これらはあまり参考にならないでしょう。
業種業界や企業規模という点で事例に偏りがあるのも、人的資本経営について今後の動向を見ていく上で「人材版伊藤レポート2.0」を改良すべきポイントです。サービス業の事例、特に物流・観光・教育(学習支援)・医療・IT・スポーツ・エンタティンメントなど事業モデルから見て人が鍵となるようなビジネスについて、具体的な企業事例を数多く紹介して欲しいところです。更に、企業以外の事例、たとえば官公庁やNPO、政治団体や宗教法人、学校法人や医療機関など、現実に多くの人々が就業している組織(特に営利目的でないもの)こそ人的資本経営のアプローチが求められているはずです。
今後、事例紹介で触れてほしい事項として、E(エクイティ、処遇の公平性)と次期経営チームの計画があります。
一般にD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)は、もともとDEI(ダイバーシティ、エクイティ、インクルージョン)のうち、人材の採用・登用面に焦点を当てているものです。採用や登用(昇進)がいかに多様化し本当の意味で実力主義に基づく人材配置を進めたところで、処遇面での公平性が担保されなければ意味がありません。
極端な表現を試みれば、同じCXO(経営幹部)といっても、現金給与・賞与や株式連動型報酬に、男女格差や国籍格差などがあるようではD&Iを真に実現したことにはなりません。といって、全員が同じ処遇でいいわけでもありません。それぞれの業績への貢献度や達成された成果などに応じて、処遇に適切な差がつくべきです。
Eというのは報酬面だけの公平性をいうのではありません。学習する機会(留学や社内キャンパスなど)、新たな仕事に挑戦する機会(社内公募など)、妊娠・出産・育児・子女教育・介護・病気休職・住宅環境等の福利厚生や個々の事情に合わせたワークスタイルなど、仕事をする状況を作り出すことも処遇の一面でもあります。こうした面における公平性も無視できません。
これはリモートワーク(在宅勤務)をどこまで認めるかといったレベルの問題ではありません。会社全体や職場単位の対応ではなく、役員を含めた社員一人ひとりの処遇の内容や水準が共通のルールに従って公平に決定されているかどうかの問題です。
今後はできるだけ、DEIのうち事例紹介では言及がほとんどないE(公平性)について、たとえば、給与・報酬の格差をどのように解消しているのか、個々の事情により仕事から離れた社員が復職しより活躍しているかどうかといった事象について、個別事例だけでなく、人事の定量的なデータも踏まえて組織として紹介するべきでしょう。
もうひとつの次期経営チームの計画というのは、次期CEO候補及び次期経営チーム(CXOレベルの執行役員)をいかに確保し育成するのかという点についての具体的なプランのことです。
もちろん、詳細は企業にとっての最高機密でしょうから、明らかにできる範囲を限定し、固有名詞では言及しないのは当然です。しかし、取締役会(特に指名委員会)やCEO及びCHROを中心とした経営チームにとって、経営上、最も重要な議題であることは間違いないでしょう。
事例で紹介すべきは、次期CEO候補及び次期経営チーム(CXOレベルの執行役員)に求めるスキルセットが、想定される事業環境の変化のなかでどのような振れ幅をもつのか、その振れ幅の中で現有の人材(社内候補者たち)で対応可能と判断しているのか、対応しきれないとすれば社外からどのように確保する計画なのか、その計画は誰が責任をもって検討しているのか、こうした点について何らかの方策があるはずです。その方策について、考え方やアプローチを表明すべきです。
更に言えば、過去にも同様の計画があり、何らかの形で実行されてきたはずです。そして、実行した結果がその企業の業績動向(財務指標など)として出ているのですから、これまでのアプローチの妥当性を検証するといった事例も紹介できます。
以上、事例紹介で触れてほしい事項としてE(エクイティ、処遇の公平性)と次期経営チームの計画について述べました。このように、現実に紹介事例がないという事実が人的資本経営の現状(=公平性や経営チームは問題外という課題認識の限界)を示しているわけで、「人材版伊藤レポート3.0」では正面から取り扱うことを期待したいものです。
【注5】
「人材版伊藤レポート2.0」の『実践事例集』は以下のサイトにあります。
report2.0_cases.pdf (meti.go.jp)
作成・編集:経営支援チーム・人事戦略チーム 共同編集(2022年6月24日)