「人材版伊藤レポート2.0」を読んで(5)
最後に、人的資本経営が今後更に進化し「人材版伊藤レポート3.0」が取りまとめられることを期待して、いくつかの検討課題を指摘しておきます。
第一の、そして最も基本的な課題として、人的資本経営とは何か、どういう経営を指しているのか、直截的で理解しやすい言葉で提示することがあります。人的資本経営の定義と特徴について、きちんとした議論を尽くしてその結果を取りまとめていただきたかったと言わざるを得ません。
確かに、3つの視点(『経営戦略と人材戦略の連動』『AS is – To be ギャップの定量把握』『企業文化の定着』)と5つの共通要素(『動的な人材ポートフォリオ』『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』『リスキル・学び直し』『従業員エンゲージメント』『時間や場所にとらわれない働き方』)が、人的資本経営を語る着眼点として挙げられてはいます。
しかし、これらを人的資本経営の定義であるとか特徴であると言うことはできません。なぜなら、一般に経営戦略を語る上で3つの視点を欠いて経営戦略を語っても意味を成しません(注6)し、現代の組織を運営するのに5つの共通要素を無視しては、まともに行うことは不可能であることは改めて考えるまでもありません。
つまり、これらの視点や共通要素について「何がどうであるのか(○○ではない)」から人的資本経営と言える(言えない)とか、「何がどういう方向に変化している」から人的資本経営が進化・深化しているといった表明が行えるように、人的資本経営についての定義であるとか、他の経営モデルとの相違点を示す特徴などを明確化すべきでしょう。
よりあからさまな表現を試みるならば、同じ業界業種の企業を比較した時に、A社はB社よりも人的資本経営が定着(進化・深化)していると判断できるものが人的資本経営を議論する際に必要なのです。
次に、人的資本経営の定義や特徴を明らかにした地点から、その枠組みとか人的資本経営の定着度を測定する指標といったものを開発したり、他の経営モデルとの違いを語ったりすることも、今後の課題となるでしょう。
たとえば、CHROの存在や達成すべき責任範囲の明確さ(文書化され公表されているかなど)、CEOが人的資本経営に費やす年間時間数(全体の3分の1を占めるかどうかが人的資本経営が実地に行われているかどうかのひとつの目安か)、取締役会において人材戦略や経営チームについて議論した時間数などは、最低限必要な指標ではないでしょうか。
また、他の経営モデル、たとえばティール組織(注7)と比較した場合、人的資本経営にはどのような特徴があるのか、検討し説明することが求められます。ティール組織の特徴としては、自主経営(セルフ・マネジメント)・全体性(ホールネス)・存在目的(エボリューショナリー・パーポス)がありますが、これらの根底には利益重視・株価重視の経営者・株主のための組織から、そこで働く人々が自己を回復して人間として認められる組織へ転換・進化することが説かれています。
人的資本経営は、確かにティール組織とは同じではないように思われます。とは言え、『企業文化の定着』、『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』、『従業員エンゲージメント』といった視点や共通要素は、ティール組織にも不可欠と思われます。
それでは、人的資本経営は従来の経営モデルやティール組織とは何が違うのでしょうか。何を目指して経営モデルを進化・深化させようとするのでしょうか。そして、その結果は業績として見ても、ちゃんと挙がっているのでしょうか。これらの質問に答えるに足るものであることが、人的資本経営という経営コンセプトにも求められます。
第一や第二の検討課題がある故に、第三の課題も目に付きます。それは、これまでのレポートが日本企業の現状を特に人的な側面から見て課題を抽出しただけではないかと思われることです。特に経営者や従業員へのアンケートの項目が、3つの視点や5つの共通要素で体系立ててはみても、結局のところ、現状の問題点の羅列にしか見えないのです。
同時に、第三の課題については、現状への問題認識を全て網羅しているわけでもなく、不十分なところもあるようです。たとえば、特に中小企業においては事業承継がうまくできずに消え去る企業が着実に増加しているという現実(注8)があるのに、それについての言及は「人材版伊藤レポート2.0」に見られません。
人的資本経営を政策的に標榜するのであれば、後継の経営者に適する人材がいなくて事業の継続が難しい企業をいくつか合併させて、経産省などから経営者を送り込んで立て直すくらいの案を実行して見せるべきでしょう。後継者難を放置しておいて、人的資本経営を語っても意味がありません。
以上、人的資本経営の定義と特徴を明確にすること、次にその枠組みとか人的資本経営の定着度を測定する指標といったものを開発したり、他の経営モデルとの相違点などを説明したりすること、日本企業の現状の問題状況に対する解決策も提示すること、これらの課題にも一定の言及が為された上で解決へのアプローチを含むものとして「人材版伊藤レポート3.0」が取りまとめられることを期待します。そこに至って人的資本経営が機能し進化・深化していくイメージを掴むことができるでしょう。
【注6】
たとえば、経営戦略を語る際に必ず言及されるマッキンゼーの7Sというフレームワークでも、戦略(Strategy)と人材(Staff)及び経営スキル(Skill)の間で戦略の連動性やギャップ分析は重要です。また、経営スタイル(Style)や共有価値(Shared Value)と他の要素との関係性は企業文化のありかたを問うものです。
【注7】
ティール組織については、当HP「書籍のご紹介」にてご紹介したことがあります。
ティール組織 - QMS 行政書士井田道子事務所 (qms-imo.com)
【注8】
東京商工リサーチの調査によると、2018年以降、件数ベースでも構成比ベースでも「後継者難」を理由とする倒産は着実に増加しています。件数では2018年は多い月で30件程度であったものが、今年は少なくても月30件、多い時は50件の月もあります。構成比では同じ期間で2~5%から7~8%へ上昇しています。詳しくは、同社の調査結果を参照して下さい。
『後継者難』倒産40件、事業承継の支援が急務 ~ 2022年5月『後継者難』倒産の状況調査 ~ : 東京商工リサーチ (tsr-net.co.jp)
作成・編集:経営支援チーム・人事戦略チーム 共同編集(2022年6月27日)