「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(1)
NHKで現在放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、初代鎌倉殿の源頼朝が亡くなった後、タイトルにもある13人が指名され、いよいよ後半の権力闘争のドラマが始まりました。この時期とほぼ同じ時期(注1)にヨーロッパではフリードリッヒ二世が神聖ローマ帝国の皇帝として、その生涯を送りました。
この二人、源頼朝とフリードリッヒ二世は、いくつかの要素が実に似ているところがあります。たとえば、頼朝は源氏の嫡流、皇帝フリードリッヒ二世は父がハインリッヒ六世、祖父が赤髭王(バルバロッサ)と呼ばれた皇帝フリードリッヒ一世、というように出自は申し分ないのですが、自前の軍事力や経済力は皆無に等しく、無論、宗教的権威でもないため、姻戚関係を含めて周囲の力を活用して政治的なリーダーとなります。
しかし、その後は既存の政治体制との軋轢(頼朝には後白河法皇に代表される院や朝廷との対立、フリードリッヒ二世には十字軍を巡る歴代ローマ法王との対立)が続きます。その一方で、自らの体制を固めるために、従来は主流とは言えない層から人材を登用したり、法や文官を重用したりするなど、独自のアプローチを採ります。特にフリードリッヒ二世は、ヨーロッパで最初の国立大学であるナポリ大学を創立し、(教会法ではなく)ローマ法を学ぶ拠点を設けます。そして、ナポリ大学出身者を文官として活用していきます。
また、下世話な言い方をすれば、女性にもてる点も共通しています。そして、女性との関係が政治的なパワーにもつながっていきます。特に頼朝は北条政子の存在がなければ鎌倉殿となることもなかったのではないでしょうか。
もちろん、頼朝とフリードリッヒ二世の間には大きな違いもあります。出自は申し分ないとは言っても、頼朝は王や皇帝の子ではありません。
フリードリッヒ二世には、パレルモの大司教ベラルドという生涯を通じての側近(外交官兼相談役)もいれば、ヘルマン・フォン・サルツァというチュートン騎士団の団長(外交官兼軍司令官)というローマ法王も破門できない側近(注3)もいました。しかし、頼朝には安達盛長という長年の側近(付き人?)はおり、短期的には範頼や義経といった弟たちに活躍の場を与えたり、大江(中原)広元や中原親能などの鎌倉に下った公家を政務の実務面で活用したりはしましたが、政治的・軍事的に右腕と頼むような側近は見当たりません。
さて、次回以降、「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」に描かれているエピソードを交えながら、軍事力も経済力も宗教的な力といったパワーの源泉として有力なものを何ももたない中から、政治力をもって新たな世の中を生み出していく、その要諦をご紹介していきます。それらは、経営資源がないなかでいかに世の中を変えるようなイノベーションを引き起こす事業を生み出す上でのヒントを提供してくれるかもしれません。
【注1】
皇帝フリードリッヒ二世は1194年に生まれ1250年に没しました。日本で言えば、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任じられ、1221年に承久の乱が起こり、1247年に宝治合戦が起こります。院政や朝廷が主導する政治体制から、東国の武士団、特にその中核となる北条得宗家による執権政治が確立していく時代に、ほぼ重なっています。
【注2】
以下、このコラムでは、「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」(塩野七生著、新潮文庫、令和2年新潮社刊)の記述を基に、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世の生涯及びその施策・行動・考え方などを見ていきます。
【注3】
フリードリッヒ二世はローマ法王から3回破門されています。ヘルマンは聖地エルサレムへの巡礼者を守るチュートン騎士団の団長であったため、十字軍による聖地奪還を至上命題とするローマ法王たちにとって、破門できない相手だったようです。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2022年7月19日更新)