「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上・下)」にみる無から有を生み出すリーダーシップ(3)
ペンは剣よりも強い、というのは、一般的には言論は武力(による弾圧)にも優る力があるという意味でしょう。専制政治や軍事独裁政権に対してだけでなく、強権的な政治手法全般に対して言葉による抵抗が有力な手段となりえます。時には、武力や経済力のような他者を従わせるパワーを有していない人や組織でも、言葉の力によってリーダーシップを発揮することで、政治的な目標を実現していくことが可能となります。その実例をフリードリッヒ二世は見せてくれます。
当時では、外交交渉と言っても、現代のわれわれが考える形での交渉ではない。交渉の当事者はあくまでも法王と皇帝なので、交渉はこの二者の間で交わされる書簡を介して進められる。(中略)
皇帝フリードリッヒは、自分が法王グレゴリウスに書き送った書簡のほうは公開する。つまり、大量に筆写され、それをヨーロッパ中の王侯たちに送りつけたのである。
皇帝から送られてきた書簡は、法王が書いてきたことへの反論で埋まっていた。まずもって、最良の反論は、まず相手が言ってきたことを使って反論するやり方だ。ゆえに、皇帝から法王に送られた書簡を読めば、法王が皇帝に何を伝えてきたかがわかってしまう。(中略)フリードリッヒの移動とともに百人もの随行者も移動するのは当時では周知の事実であったが、随行者の多くは、コピー役の書記と配達人で占められていたのである。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(上)」466~468ページ)
もちろん、ローマ法王は直接的な意味では武力を持っていません。中世のヨーロッパ世界におけるリーダーシップの源泉としてあるのは、キリスト教(カソリック)の現世における代理人という宗教的権威に尽きます。それに付随して経済力や人脈なども十分にパワーの源泉となっていますが、中世のヨーロッパ世界の標準語といえるラテン語を公用語としている点もリーダーシップを語る際には見落とすことができません。
その法王と戦うには、武器は役に立ちません。もともと武力に乏しかったフリードリッヒ二世にとって、言葉で戦うのは慣れていて得意であったのかもしれませんが、それに加えて現代で言えば広報戦略とか宣伝戦といったものにも長けていたことも否定できません。
それを実務的に支える人材として、いわゆる祐筆的な存在が不可欠です。日本でも、中世になり武士が政権を担うようになっても、公家出身者が政権中枢で存在感を示すことがあるように、フリードリッヒ二世の政権においてもコミュニケーション面で皇帝を補佐する者が出現します。
大司教ベラルドの推挙によってヴィーニャがフリードリッヒの側近に加わるようになったのは、相当早い。ナポリ大学の創設に関与したのは彼がまだ三十代の前半の時期であり、『メルフィ憲章』に盛られた政策を法文に直したのは彼であったとされているが、その年は四十歳だった。
公文書以外にも、皇帝が法王に送る書簡の文章を書く仕事を任されていたのは、彼が美辞麗句を連ねる文章の達人であったからである。聖職者は普通、この種の文章で書かれていないと機嫌を悪くする人々でもある。素直で簡潔で明快な文章を好むフリードリッヒが書いたのでは、起こらないで済む問題でも起こりかねないのであった。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(下)」132ページ)
ピエール・デッラ・ヴィーニャは、出自は中産階級で、ボローニャ大学法学部を卒業後は一時期、失業者であったこともありました。現実の交渉ごとでは、これといった結果を生み出すことはなかったようですが、文章を書くことにかけては優秀であったようで、後にロゴテータという今で言えば官房長官に匹敵する地位にまで昇進します。そして皇帝に仕えて30年にもなろうとしていた頃に、大逆罪(皇帝に対する反逆罪)で逮捕され、獄中で死んでしまいます。
この事件の動機や背景はよくわかっていませんが、考えてみれば、書簡や法令を含む公文書などの文章を書くことだけで、皇帝直属の書記から出発して、皇帝直下の大臣にまで出世していった人がいること自体が、フリードリッヒ二世のリーダーシップの特徴として文書化されたコミュニケーションを極めて重視し、それに成功していたことを示しています。
こうしたコミュニケーションのスタイルは、皇帝の宮廷や政治だけでなく、広く個人的な関係にまで及んでいます。そして、その個人的な関係が同時に、内政や外交を推進する力ともなっています。特に、皇帝の私的な人脈を形成する上で、コミュニケーションの力が大きいことは論を俟ちません。
その皇帝の「友人たち」だが、フリードリッヒの場合は大別して二種に分かれる。手紙を介しての仲と、招じられて皇帝のそば近くに長期間滞在していた人、の二種類だ。フリードリッヒは、公式の文書や書簡を書かせるための書記を多数かかえていたこともあって、私的な面でも手紙魔の性向があった。(「皇帝フリードリッヒ二世の生涯(下)」140ページ)
本書によれば、ここで「手紙を介しての仲」とされる人には次のような人々がいます。
レオナルド・フィボナッチ
イタリア人のキリスト教徒。交易業を生業とし、数学者としても著名で、今もフィボナッチ数列に名を遺す。当時はイスラム教徒が使う「悪魔の数字」とされ、ローマ法王が禁じていたアラビア数字を、ヨーロッパに初めて紹介しヴェネツィアで普及させるのに一役買う。これにより、ゼロの概念を導入し、ローマ数字の煩雑さを解消することが可能となった。また、複式簿記の改良・普及なども行う。フリードリッヒ二世より生涯年金を給付された。
イブン・サビン
スペインのアンダルシア地方に生まれたアラビア人でイスラム教徒。神学の目的に始まり霊魂の不滅といった大問題にまで及ぶ、フリードリッヒ二世の哲学的・神学的な問答に答えている。この問答がローマ法王にとって大問題となる。
アル・カミール
アユーブ朝のスルタン。クルド族出身。第六次十字軍でフリードリッヒ二世との間で講和条約を締結した。皇帝と直接会ったことはないが、書簡のやりとりを通じて、親交を結ぶ。ローマ法王から見れば、聖地エルサレムを奪回すべく十字軍を派遣して打倒すべき敵の大将ということになる。
次に、招じられて皇帝のそば近くに長期間滞在していた人としては、次のような人々がいます。
ジョルダーノ・ブルーノ
ヨーロッパで初めて獣医学を研究し、サレルノ医学校で学び教える。
アダモ・ダ・クレモーナ
防疫学を研究し、衛生政策(感染症対策)に影響を及ぼす。
ザッカリーア
ユダヤ人の眼科医。フリードリッヒ二世の視力低下を診る。
ソロモン・コーエン
マルセーユ出身のユダヤ人で、ヘブライ語の文献をラテン語に翻訳する。
マイケル・スコット
スコットランド出身の修道士。オックスフォード、パリ、トレドで学ぶ。多言語(英語、フランス語、ラテン語、アラビア語など)を習得し、アラビア語からラテン語への翻訳に従事する。アリストテレスの著作物などをラテン語に訳した。フィボナッチの紹介でフリードリッヒに出会い、フリードリッヒの問答(宇宙、神、天国・地獄、地球の中心、火山の噴火、海水の味や潮の満ち干きなど)の相手をする。占星術も行う。
イブン・ルシュート
ギリシア語の文献(アリストテレスの著作物など)をアラビア語に翻訳する。
テオドール
アンティオキア(シリア)出身のギリシア人でキリスト教徒(ギリシア正教)。ギリシア語・ラテン語・アラビア語・フランス語を解し、古代ギリシア科学全般に詳しい。フリードリッヒ二世の健康管理に当たり飲料やキャンディを調製する。医学・疾病学では、アダモ・ダ・クレモーナと協力してシチリア王国の疾病対策、特に下水道整備に貢献する。アラビア語文献のラテン語への翻訳では、鷹狩りの指南書を翻訳し、皇帝自らに『鷹狩りの書』を書かせる契機となる。
こうした人々とのコミュニケーション、特に翻訳作業を通じて公的にも私的にもフリードリッヒ二世のリーダーシップが確立し更に強化されていきます。そのプロセス、特に翻訳作業を通じて、イタリア語が形成されていった点も見逃せません。なお、この頃、どころか中世から近世全体を通じて、イタリアという統一的な国家はありません。にも関わらず、現代のイタリア語のもとになるものができるのです。
現代でも、言葉は概念(アイデア)を形にしたものであるはずで、何か新しい概念があるのであれば、新しい言葉が生まれるでしょう。古代ギリシアの哲学や科学をラテン語に翻訳する作業を通じて、イタリア語が生まれてくるのであれば、デジタルコミュニケーションがさまざまに進化するなかから、単なる言葉や映像を超えた別の何かのコミュニケーションのありかたが生まれても不思議はありません。それは、きっと後世の人々から見れば、ごく当たり前のものになっているはずです。
イタリア語の形成を一種のイノベーションと見るならば、多種多様な人々がいろいろな知見を持ち合って一つの作業に従事するなかから、次のイノベーションが生じるのではないかと思われます。そうしたイノベーションを引き起こすリーダーシップは、リーダー自らが採るコミュニケーション戦略に負うところが大きいとすれば、強みや資源が何もないと思っているリーダーにとってコミュニケーションこそが最も力を入れるべきものです。ビジネスでも同様で、リーダーのコミュニケーションのありかたが、事業や組織を決めるのです。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2022年8月5日更新)