人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(3)
人的資本経営を実現する人材戦略で『動的な人材ポートフォリオ』の次に検討すべき事項として『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』があります。正確に言えば、次に検討するというよりも同時並行的に検討していくべき課題です。
人材ポートフォリオをダイナミックに組み替えていくということは、多様な人材を受け入れ、さまざまな人材が有する知見やスキルをぶつけ合って、新たな知見を生み出したりこれまでにない人材を育成したりして、更なる人材ポートフォリオの組み換えを実現していくことに他なりません。
ここでの処遇の問題は、たとえば、人材として雇用・登用した外国人に対して報酬や給与を日本円で支払うべきかとか、日本での居住体制や家族の生活上でのサポートをどこまで行えばよいか、といった処遇に関するテクニカルな事項も無視できません。為替リスクを従業員に負わせるのがマネジメントとして適切とは言えませんし、居住用物件の斡旋・契約や子女の教育への支援などお金で解決する前にサービスとして提供することで『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』をサポートできることのほうが多いくらいです。これらのことは、日本人社員が海外に赴任することと同じでしょう。
ところで、形式的に多様化することもなかなか進まない企業が日本には多い中では、改めて言うまでもないことであっても確認までに言えば、『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』は単に社員や役員の構成を性別や国籍といった形式的な要件で多様化することではありません。
『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』を実現していく前提として、働くのに適した時間や場所を選択する自由は元より、介護や育児などの個人の事情や家族の情況に対して柔軟に対応する組織であることが必須です。その延長線上に、異なる文化をもつ外国人を受け入れるという課題があります。
これらに対応するのに最も容易な方法は、付加的な現金支給です。法的に認められた介護休職や育児休業とは別に、何らかの介護手当や育児手当・教育手当などを基本的に支給される給与や賞与に加算して支払うというものです。
ここで注意したいのは、安易に現金支給という選択肢を実行してしまうと、対象とならない社員から、労働の対価としての賃金といえないものをなぜ会社は支給するのか、という疑問が自然に生じるという点です。こうした疑問が具体的な声として表出する前に、会社の方針や経営理念、特にはパーパスから、それらの手当が必要な理由や導入されるまでの検討の経緯などを丁寧に説くことが望まれます。
一方、これらの手当の支給対象となる社員からも、月に数万円程度の現金支給よりも、働く時間や場所を本人が選択する自由度を高めたり、利用可能なサービスの紹介・斡旋・補助をメニュー化して社員自身が都合に合わせて選べたりするものを要望されるケースもあります。
要は、働きたいのに諸事情により一般の社員と同じ就労条件では働くことが極めて困難な状況に現に陥っている社員のニーズにフィットしている政策やプログラムを、組織としてどこまで用意できるかどうかが問われるのです。
この点、小規模な組織のほうが、実は社員個々の事情を汲んだ施策を実行しやすいのです。規模が大きくなれば、他の社員との衡平性が疑問視されたりルール化への時間とコストが大きくなったりして、容易に施策の検討・実施にまで至らないことが想像できます。言い換えると、『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』は小規模な組織の方が、その気になれば取り組みやすい課題と言えるのかもしれません。
『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』が望ましい方向に進めば進むほど、特に経営幹部レベルにおける日本人男性の比率は従来よりも明らかに低下することが予想されます。そして、経営幹部候補、更に一般の管理職といった人材層にも同様の影響が及ぶでしょう。
事業を現実に行っている会社(子会社)や部門であれば、処遇水準は同業他社との比較というのが基本です。ただ、多種多様な事業を多国籍で展開している企業となると、同業他社との比較は作業だけでも大変です。日本国内に限れば、処遇水準に関する情報は、専門機関による伝統的なデータもあれば、求人サイトなどが取りまとめているデータもあります。
男女や国籍に関係なく、同じ仕事をしているのであれば、同じ額の給与・賃金であり、給与体系も同じであるはずです。日本人男性新卒入社だからといって、他の属性の社員よりも採用時賃金も昇給も昇進も差があってはならないのです。処遇に差があるということは、業績評価の結果に差があるとか、配属先の組織全体の業績に格差があるといった要因しか認められません。これが処遇におけるインクルージョンということです。
ここで特に問題となるのは、本社やホールディングカンパニーに所属する社員の処遇です。
『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』を主唱するのであれば、本社やホールディングカンパニーの社員は戦略系コンサルティングファームやM&Aファームまたは投資銀行や投資ファンドなどから人材を獲得して、それぞれが有しているであろう経営戦略や投資・M&Aに関する専門的な知見やスキルなどを自社に導入すべきでしょう。決して、同業他社が参照すべき対象ではありません。同業他社を参照するのは、事業会社が現行のビジネスを強化・拡大・発展させるために即戦力を求めている場合です。
従って、その処遇も同様の人材マーケットから人材を獲得できるレベルであることが求められます。支給すべき年収水準として、最低でも1千万円、何らかの結果責任を負うべき者できれば2千万円(給与所得者であっても確定申告が必要な水準)は望まれます。これに、株式連動型報酬や各種のフリンジベネフィットが付加されます。
いわゆる本社やホールディングカンパニーに属している社員であっても、いきなり戦略策定を行ったり事業の分割・買収・合併を担ったりすることが可能な人材はそう多くはないでしょう。現実には、管理部門の実務作業を担当している人が数の上では大半を占めるはずです。これらの人材は、シェアードサービスの実務者として、人事ならば人事、経理ならば経理の専門サービス事業者と比較して、その強み弱みに応じてシェアードサービスの事業者としてあるべき処遇水準を実現することになります。
時には、現行よりも処遇水準が低下することもあるでしょう。そうした場合、いわゆる激変緩和措置として、従前の給与水準は最低保証として一定期間は維持するといった条件が満たされないと、誰もシェアードサービスの会社に転籍することを承諾しないでしょう。
実態として考えるに、大企業、特に本社やホールディングカンパニーに属している社員にとって、その大半はいわゆるシェアードサービスの実務担当者ですから、『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』を進めれば進めるほど、本社やホールディングカンパニーからシェアードサービス専門企業に出向・転籍するか、またはそうした専門企業に自ら転職していくしか、これまで蓄積してきた実務スキルや専門知識を活かすキャリアは見つからないこともまた、当人たちの感情とは別に、受け入れざるを得ない事実です。
そして、新たに転籍・入社した組織において、異なる企業での異なる実務手法が整理・統合されて、個別企業や業界などを超えて標準的な実務のやりかたが生まれてくるのかもしれません。そうなって初めて、これまで日本企業でなかなか進んでこなかった事務部門の労働生産性向上が目に見えて実現してくる可能性が出てきます。そうならなければ、人員削減や賞与カットなどで無理矢理にでも労働生産性を引き上げていくしかありません。
このように、『知・経験のダイバーシティ&インクルージョン』を実現していけばいくほど、日本企業がこれまで直視してこなかった、本社やホールディングカンパニーに属している社員(特に日本人男性新卒入社の者)の処遇を、アップさせるべき者と現状維持またはダウンさせるべき者とに明確に二分するという課題に、急いで取り組む必要が出てきます。
作成・編集:人事戦略チーム(2022年10月21日)