人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(6)
人的資本経営を実現する人材戦略で第四に検討すべき事項として『従業員エンゲージメント』があります。これは、従業員のエンゲージメントに関して現状のレベルを把握した上で、たとえば、ストレッチアサインメントやオープンポジションの社内公募など自ら仕事に挑戦するように促したり、また副業・兼業等の多様な働き方を推進したり、健康経営への投資とWell-beingの視点の取り込みといった施策を推進するといった、包括的な人事施策を講じていくことにつながります。
こうした施策をさまざまに推進していくと同時に、市場や投資家とのコミュニケーションについても現状や効果を把握して、その結果として業績の向上との間で中長期的な相関性があることを示すこと、それが、取りも直さず、人的資本経営が機能していることの証左となります。
言い換えると、『従業員エンゲージメント』がうまく機能していないとすれば、業績の低下・低迷や想定しない不祥事の続発や事故・自殺の増加など目に見える形で問題が明らかになるのは当然です。従業員満足度の低下や退職率の上昇といった数値化された代表的な指標だけでなく、目に見えない形でも問題は悪化します。実際、『従業員エンゲージメント』が低下するほど、真面目に働いているように思われる従業員でも静かなる退職(Quiet Quitting)に走っているかもしれません。
一般に『従業員エンゲージメント』というと、制度や労働条件がよい職場を作ることで実現されるものというイメージがあるようです。たとえば、東京都の「魅力ある職場つくり推進奨励金」(注6)では、次の9制度を整備したり所定の賃上げを実施したりすることで、従業員エンゲージメントを高めて魅力ある職場を作ることを目指しています。
フレックスタイム制
選択的週休3日制
ワーケーション制度
社外副業・兼業制度
人材育成方針の策定と目標管理・キャリア面談制度
社内メンター制度
リスキリング・資格取得制度
外部キャリアコンサルタント活用支援制度
従業員表彰制度・報奨金制度
それでは、こうした制度が充実していて、賃金も相場並みかそれ以上に支払われている企業は『従業員エンゲージメント』が高いのでしょうか。単刀直入に言って、さまざまな人事施策がプログラムとして整備され、給与も十分に支払われていれば、魅力ある職場であり、従業員のエンゲージメントも高く、業績も悪くはないことにつながっていくのでしょうか。
誰でもすぐにわかるように、いかに制度が整っており給与も人並み以上に支払われているとはいっても、自分であまり希望していない仕事を担当せざるを得ないとか、上司・部下や同僚などとの人間関係に問題があるという状況では、『従業員エンゲージメント』をさまざまなツールを使って測定するまでもなく、モチベーションやストレスなどの面で課題だらけとなることが予想できます。
まして、そもそも企業業績全体が悪いとか、所属している部門が閉鎖されるのではないかといった噂が絶えないといった状況で、社外副業やキャリア面談、リスキリングや資格取得を奨励したり、外部のキャリアコンサルタントを活用したりすれば、次は人員整理かと従業員は思うでしょう。静かなる退職どころか、沈みかけている船から我勝ちに逃げ出そうとするか、割増退職金やアウトプレースメントのサービスを要求して少しでも条件の良い形で退職しようとするはずです。
このように『従業員エンゲージメント』を巡っては、その会社が置かれている状況(業績見通しや社会的な評価の動向など)によって、同じ人事施策でも従業員の受け止め方は正反対になることもあるのです。
従って、一般論として『従業員エンゲージメント』を高めるには、ということを考えるよりも、個別の企業や組織にとっては『従業員エンゲージメント』の現状及び動向を把握し、人事・組織運営上の課題を特定することが肝要です。そのためのツールとして、社外専門機関の提供する『従業員エンゲージメント』に関するアンケート調査やAIを活用した従業員の就労状況調査(就業時間のデータ管理、健康診断結果などの分析、ストレスチェック、職場環境の測定など)などに取り組む必要があります。
さて、具体的な施策を巡る議論を行う際に忘れてはならない視点として、古典的ではありますが、ハーズバーグの二要因理論とマズローの欲求段階説があります。
ハーズバーグの二要因理論とは、次のようなものです。心理学者のハーズバーグは労働者の調査に基づき、従業員の職務満足度を左右する要因は動機付け要因と衛生要因に大別されること、そして、満足度を向上させるには動機付け要因が、不満度を悪化させるには衛生要因が、それぞれ影響することを明らかにしました。動機付け要因とは、仕事そのもの、仕事の達成、仕事が認められること、責任を果たすこと、昇進することなどがあり、衛生要因には、労働(作業)環境、職場の人間関係、監督や管理のやりかた、方針や指示、金銭的報酬などがあります。
マズローの欲求段階説とはモチベーションに関する理論です。欲求を5つの段階に分け、下位から上位へと、生理的欲求、安全・安定の欲求、所属・愛情(社会的)欲求、自我・尊厳の欲求、自己実現の欲求と名づけました。そして、人間の欲求は、下位の欲求が満たされてはじめて次の段階の欲求に目が向くので、まずは生理的欲求(一人の人として生存するのに必要な食事や睡眠などが満たされること)が満たされることが重要で、その次に物理的な安全(住居など)や社会的な安定(雇用など)が満たされる必要があります。そこから、何らかの集団への帰属やそこでメンバーとして存在を認められることが求められ、その欲求が満たされると、プライドを感じることや仲間や世間から注目を集めることが求められます。そして、最後に、自分の価値観を信じて真善美を追究・追求する段階に至ります。
『従業員エンゲージメント』に何らかの問題があるとして、それは動機付け要因に関連するものなのか、衛生要因に起因するものなのか、対応は異なっていきます。また、その従業員(または従業員グループ)が欲求段階のどの段階に該当する(さすがに生理的欲求の段階であることはそうそうありえないでしょうが、安全・安心の欲求が満たされていないことは心理的安全性が注目されることからも十分にありえます)と思われるのかによって、対応策は異ならなければなりません。故に、同じ職場であっても、従業員個々に応じて対応していくことになります。
個々の従業員についてそのエンゲージメントが低下していているなど、何らかの問題があるならば、まず、その従業員の置かれている状況を職場だけでなく家庭や家族なども含めて把握する必要があります。育児や介護に困難を抱えている従業員と、将来のキャリアや現状の収入に不満を持っている従業員では、同じように仕事や職場に悩みを抱えているといっても、その原因も対策も違ってくるのが当然です。時には、人事部門やマネージャーでは個人に事情に踏み込むことができないこともありますから、カウンセラーや弁護士などの社外専門家を活用できるようにリソースを用意しておくことも望まれます。
企業としてできることは、エンゲージメントが低下するなど問題を抱えていると思われる従業員に対して、必要なサービスを無料または低廉な価格で提供したり、休暇・休職やフレキシブルな勤務体制などにより仕事をしやすい環境を作ったりすることです。単に賃金の引き上げや手当の新設や増額で対処すればよいものではありません。
また、企業としてやるべきことは、定期的な『従業員エンゲージメント』診断です。組織全体を一人の人と見立てると、『従業員エンゲージメント』診断は言わば健康診断に相当するものかもしれません。可能であれば、日常的に体温・血圧・脈拍数・血糖値などを計測したり、定期的に体重測定や血液検査など行ったりして、病気を未然に防ぐのと同様に、組織も『従業員エンゲージメント』を測定・分析し、職場の環境や仕事の進め方、マネジメント・リーダーシップ・コミュニケーションなどについて定期的に見直すことに、コストを適切にかけていくことが望まれます。
【注6】
「魅力ある職場つくり推進奨励金」については、以下のサイトを参照してください。
engagechirashi.pdf (shigotozaidan.or.jp)
作成・編集:人事戦略チーム(2022年11月13日)