人的資本経営時代に給与を適切に調整するには(7)
それでは、「従業員エンゲージメント」と給与や報奨との関係をどのように考えればよいのでしょうか。
一般に報酬には金銭的なものと非金銭的なものがあります。金銭的な報酬として、業績評価の違いに応じた(=いわゆるベースアップのように全員一律に昇給するものではない)昇給、業績に応じた変動賞与、獲得した契約数や売上高などに応じた出来高払いなどがあります。
給与や賃金は、従業員がサステナブルである程度(生活に困らないレベルに加えてリスキリングに要する費用も賄える水準)を超えることが、まず求められます。本来は、最低賃金がこれに相当しなければなりません。
動機づけ要因や内発的動機付けから給与や報奨を見た場合、承認欲求を満たす程度の格差は必要かもしれせん。「仕事をよくやった」というのであれば、そのことを言葉で表現するとともに、給与や報酬の面からも表現する必要があります。
その手段として、賞与(特に個人的に特別なもの)や昇給があるとすれば、その程度の格差を大きく超越するような過大な報酬は無意味なものと言わざるを得ません。むしろ、非金銭的な手段、例えば昇進や株式保有の優遇や起業・独立の支援などで、承認欲求を満たすことを検討すべきでしょう。
一方、衛生要因や外発的動機付けから給与や報奨を見た場合、わずかな差が不満をもたらす虞があります。個人の業績評価の違いから生じた昇給格差が、仮に月に百円単位の基本給の違いであったとしても、同じ職場で同期入社した二人にとっては、嫉妬と怨嗟をもたらしかねないものなのです。つまり、わずかな差をいかに精緻な論理で正当化できたとしても、当事者の感情面では受け入れがたいことが往々にして見られます。
それほど社内衡平性が重視される一方で、明らかに大きな格差、例えば昇進年次の違いとか百万円単位での賞与の違いといったものは、格差をつける前提として業績の個人差や第三者が見ても理解できる能力の違いが目に見えるのであれば、本人たちにも受け入れられる(受け入れざるを得ない)ものです。
本来は仕事そのものが報酬である側面もあります。組織としてまた社会として有意義な仕事であるとか、本人が心からやりたいと思う仕事を担当する機会を得られることが、報酬であるという考え方もできるでしょう。また、顧客や他部門からの感謝や経営トップからの称賛などがあれば、上司が「ありがとう」と伝える以上にその仕事そのものが報酬となることもあります。
反対に、仕事に適切に取り組まないとか、結果がいつになっても出てこないとか、チームの足を引っ張って組織全体の業績に貢献していないなど、明らかに「仕事ができていない」のであれば、昇給しないとか賞与が支給されないといった形で給与や報奨の面で「仕事ができていない」と表現することが必要です。
それらとともに、本人が希望しなくても誰かがやるしかない仕事を割り当てるとかキャリアカウンセリングなどを通じて別のキャリアを歩むように促すといった形で、組織が本人にネガティブなメッセージを的確に伝えて理解させなければなりません。もちろん、本人の能力や適性、希望する仕事の内容などを踏まえて、時には結果が出なかったのと同じ仕事に再度チャレンジさせる場合もあり得ますが、それはあくまで例外です。
特に金銭的な報酬が相当程度に高い場合は、最も意味のある報酬が仕事そのものというケースが、実はよくあります。マズローの欲求5段階説ふうに言えば、その仕事をすることが真善美の追究・追求につながるのであれば、より高度な仕事を創り出したり生み出したりすることが、最高の報酬なのです。
実際、アーティストやプロスポーツ選手、サイエンティストやいわゆる高度専門職といった職種では、最高の舞台で自分のもてる力の限界に挑戦するチャンスを得ることに、究極のやりがいを感じる人が多いでしょう。たとえば、サッカー選手であればワールドカップの決勝戦のピッチに立つか、1億円を貰うのか、どちらかを選べと問われれば、大半の選手がワールドカップの決勝戦を選ぶのではないでしょうか。
こうした職種では、最も厳しいマイナスの報酬は仕事から外すことです。契約上金銭的な報酬は確保されているとしても、公式戦でスターティングメンバーから外されるとか一軍のレギュラー枠に登録されないといった扱いが、プロ野球やJリーグの選手にとってどのような意味を持つのか考えてみるまでもないでしょう。
このように考えてみると、『従業員エンゲージメント』は人々が何のために働くのか、働くことの意味を改めて問うことから着手しなければならない課題です。働くことと(給与を含めて)働きに報いることとの関係を再構築しなければ解決しないテーマでもあります。
そこで改めて問われるのは、単に現状の仕事や職場に満足して働いている(=従業員満足度が高い)ことではなく、やりがいのある仕事をして成功している(=「従業員スライビング」(注1)が高い)ことを組織として実現していくには、どのような考え方でどのような施策に取り組んでいくべきかということです。
マイクロソフト社はこの課題に取り組み、従業員満足度と業績の間には相関関係は見られず、従業員スライビングと業績との間に有意な関係があるとしています。同社によれば、従業員スライビングとは有意義な仕事をするためのエネルギーとエンパワーメントを得られることと定義できるそうです。
成功している従業員を調べてみると、有意義な仕事を担当し、上司から十分なエンパワーメント(権限移譲)を得て、周囲からもエネルギーを得て仕事に取り組んでいる姿が浮かび上がってきました。
さらに成功の背景を分析すると、職場の文化・マネージャーのありかた・従業員スライビングの実現といった要因が見られます。
職場の文化というのは、同僚とのチームワーク、インクルーシブな文化、ウェルビーイングへのサポートなどがしっかりしていることです。反対に、縄張り意識や官僚主義、協働の欠如といったものが蔓延っている職場では成功を経験し難いようです。
次にマネージャーのありかたというのは、従業員本人から見て「マネージャーは尊厳と敬意をもって接している」「マネージャーは有能だと思う」「キャリアに関してマネージャーからサポートを受けている」といったことが実感できるほど、仕事の成功につながっていることが明らかになったそうです。
そして、ワークライフバランスと従業員スライビングは別の概念であることを再認識する必要があります。ワークライフバランスが整っていれば、仕事のエネルギーやエンパワーメントがより得られるわけではなく、忙しさでワークライフバランスが乱れていても、成果を残して充実感を得られる場合もあります。だからといって働きやすさは蔑ろにしてよいわけではなく、持続可能な働き方のために欠かせないものとして、ワークライフバランスの視点も無視できません。
こうした調査結果からも推測できるように、『従業員エンゲージメント』が独立した要因として経営の成功ファクターとなるわけではありません。
『従業員エンゲージメント』を向上させることでワークライフバランスを実現するように、給与や報奨を含めた労働条件が十分に良くて非金銭的報酬も含む多種多様な制度が充実した職場を作り、従業員にとって魅力的な職場環境を作り上げることはあっても、それが経営の目的でもなければ成功の鍵でもありません。
あくまでも、サステナブルな情況を維持しながら、従業員一人ひとりが安心して仕事に挑戦し続けること、それが『従業員エンゲージメント』の実現に他なりません。給与や報奨を適切に運用することは、サステナブルな情況を維持する上で忘れてはならない重要な要素ですが、あくまでもそうした要素の一部に過ぎないものでもあります。
作成・編集:人事戦略チーム(2022年11月30日)