2023年夏の3冊(2)~「敗れざる者たちの演劇志」
次に採り上げるのは、「敗れざる者たちの演劇志」(流山児祥作、西堂行人編、2023年論創社刊)です。
この本は、劇団主宰者・演劇プロデューサー・演出家・劇作家・俳優である流山児祥がコロナ禍で演劇公演の中止が続く最中に、編者の西堂行人の提案を受けて自らの演劇史をトークライブという形で語ったものに基づき、写真や脚注をふんだんに取り入れた対談集です。
本書のもととなったトークライブは、space早稲田・上野ストアハウス・シアター新宿スターフォールド・座高円寺阿波おどりホールで約1年間にわたって6回行われました。最終回の後半は3人の若手演出家が加わっていますが、それ以外は全て流山児祥と西堂行人の対談という形で行われており、1970年代から現在に至るまでの流山児祥の個人演劇史であるとともに、日本の演劇界の歴史と課題が語られています。
労働運動家だった父親を持ち、熊本で生まれ育った流山児は中学時代に関東に転居し、青山学院大学に入学します。高校の頃から当時盛んだった学生運動に関わり始める一方で、演劇にも目覚めます。特に、唐十郎と別役実に衝撃を受けたと語っています。
鈴木忠志、佐藤信、寺山修司などいわゆるアングラ四天王(もう一人は唐)とも出会い、自らの演劇集団を立ち上げたり、唐の主宰する状況劇場で研究生となったりして、学生運動と演劇活動に明け暮れる日々が1960年代後半です。
その中から、流山児の演劇活動のコアとなる「演劇団」が生まれます。そのメンバーは全員が全共闘運動(学生運動)の経験者で、なかでも俳優として参加した新白石は青山学院大学の全共闘議長だったそうです。
1970年代にはいると、流山児祥個人としても多忙(早稲田小劇場の研究生同期の女性との恋愛・結婚・長女の誕生・離婚)を極めていながらも、「演劇団」の核として多くの舞台を生み出していきます。このころは「演劇団」も含めて小劇場と呼ばれる演劇が第二世代になっており、70年代後半になると野田秀樹など次の世代が小劇場の世界にも登場します。流山児も野田の作品を演出したりします。
80年代の第三世代の時期になると、「演劇団」は「第二次演劇団」(84年解散)、そして「第三次演劇団」(90年解散)となり数多くの作品を生み出すとともに、他の演劇人との交流がアングラ系や小劇場系に留まらず、商業演劇系やアジア諸国(特に韓国)に広がっていきます。84年より流山児★事務所を設立し、“新しい出会い”と“小劇場運動の横断的結合”を目論み、プロデュース公演が増えていきます。私生活では80年に女優の山口美也子と再婚し、翌年に長男が誕生します。
1990年代には80年代の動きが発展し、千田是也などの新劇の大御所との交流やロンドン留学を体験しつつ、95年には東京演劇実践塾を開校し、翌96年に流山児組に発展・改組し、拠点となる稽古場兼劇場としてspace早稲田を開場するなど、若手の育成に本格的に取り組んでいきます。一方、98年には楽塾という中高年齢者を対象とした演劇ワークショップを開始(注3)し、これまでとは異なるアプローチで新たな出会いを実現します。
2000年代になると、90年代にスタートした海外公演に本格的に取り組みます。海外公演は90年代には韓国で2回だけでしたが、2000年以降はカナダ、エジプト、中国、台湾、マカオ、香港、ロシア、イラン、ベラルーシ、インドネシア、イギリス、USA、ルーマニアといった国々や地域(複数回上演した国・地域を含む)で公演していきます。いわゆる劇場での公演もあるのでしょうが、フリンジシアターと呼ばれる野外公演や仮設劇場での公演も相当あるようです。
国内では、楽塾に加えて3年間の期間限定のシニア劇団「パラダイス一座」を旗揚げしたり、2007年より現在に至るまで「次世代を担う演劇人育成公演」(後に「日本の演劇人を育てるプロジェクト」)として社団法人日本劇団協議会の主催公演をプロデュースしたり、演出家コンクールを通じて自分の子供やそれよりも若い世代との新たな出会いを生み出したりと、相変わらず様々な仕掛けを試みています。
これらの創作・制作活動で演劇と関わるだけでなく、観客としても劇場やアートスペースなどに通う日々を半世紀以上過ごしています。最も演劇を観ている(かもしれない)日本人でもあるのです。
流山児にとって、ライフ(人生、生活)=演劇であり、自ら行うものであると同時に他者の演劇も悉く目にしようとするものでもあります。再婚し離婚した山口美也子が2000年7月(正式な離婚は6月)にコメントしているように、「彼にとっては劇団員が家族で、芝居のことしか頭になかった。それが彼の生き方だった」(「年譜」の「出来事」欄)のでしょう。
その生き方を今でも貫いていることに驚きを隠せません。若いころには演劇鑑賞が趣味だった筆者にとって、小劇場では一つの舞台において一観客でいることに体力や集中力が不可欠でした。40歳以降はさすがにきつくて続きませんでした。
ところで、本書の特徴として、当時の豊富な写真と膨大な人名の脚注があります。マルクスや孫文、毛沢東や伊藤博文に始まり、同時代の演劇関係者に数多く言及しており、合計で564名に及んでいます。これらを見て読むだけでも、その当時の演劇シーンを思い出すことができます。
その半面、例えば、出口典雄、吉田鋼太郎、加藤健一、成井豊、鈴木聡、小野寺丈といった、70年代から90年代の小劇場で活躍していた人々については言及がありません。特に、ジーパン・シェイクスピアの異名をとった劇団シェイクスピア・シアター(注4)は、流山児の公演と同様に、渋谷のジャンジャンで公演を行うことが多く、蜷川幸雄ともつながりが深い吉田鋼太郎が役者として活躍していたこともあり、何らかの言及があってもよかったのではないかと思います。
本書を読むと、流山児祥という人がまさに演劇人(正確には小劇場人と呼ぶべきかもしれませんが)であることが納得できます。その持ち味は、何でもありで人を巻き込む力でしょうか。劇団を作ったり、プロデュース公演を仕掛けたり、とにかく人を巻き込んでオーガナイズしていくことが楽しくて仕方がない人なのだろうと思うしかありません。演劇を観ることの点でも楽しくて仕方がないかのように、半世紀以上にわたって観客であり続けているからこそ、更に次の演劇人との出会いが生まれるのが必定です。出会った人々全員について言及することは、とてもできない相談でしょう。
このように何らかの形で演劇に触れ続けることが、たぶんライフ(生活、人生)なのでしょう。流山児本人は、2000年以降、演劇を通じて戦う意志はあっても敗れ続けているという自覚があるようですが、今も現役のプロデューサーで演出家でもあり、次の世代の演劇人とも積極的に関わり続けている姿を知ると、小劇場の人間国宝か演劇を作り観ることの重要無形文化財として登録すべき存在ではないかと思わずにはいられません。
【注3】
一般人を対象とした演劇ワークショップは、80年代からいくつかの試みがありました。例えば、如月小春(および如月が主宰したNOISEメンバー)による池袋コミュニティカレッジ(池袋の西武百貨店かPARCOの8階あたりで開催されていたもの)で行われていたもの、山の手事情社主宰の安田雅弘による自治体と共催のものなどです。劇団員や研究生の募集を兼ねたワークショップや演ぶ(演劇ぶっく)ゼミナールの一つとしてのワークショップなど、第三世代の小劇場が盛んだったころは演劇や演技に関するワークショップが、東京都内はもとより全国的に開催されていた記憶があります。
【注4】
演出家の出口典雄が主宰したシェイクスピア・シアターでシェイクスピアの四大悲劇の主人公を全て演じたことがある川上恭徳については脚注があります。
作成・編集:QMS 代表 井田修(2023年9月7日更新)