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キャンセルカルチャー時代のマネジメント(3)

キャンセルカルチャー時代のマネジメント(3

 

前回述べたようにキャンセルカルチャーでは、厳しい批判や損害賠償を招く元となった言動は、その言動を行った当時は問題視されていないのです。問題視どころか、むしろ好意的に解釈されうる言動であったこともあります。しかし、物事を判断する基準が社会的に変わり、非難や批判の対象となってしまうことがキャンセルカルチャーです。

従って、キャンセルカルチャーで問題が顕在化した時には、問題となる事象が起こってから既に一定の時間が経過していることになります。その時間は年単位どころか、10年単位ということもあります。故に、被害を受けた人の数は多くなり、対象も広範にわたることになりがちです。

キャンセルカルチャーに直面した時、最初に対応を間違えがちなのは、被害を訴える人々の数や範囲を過少に捉えることです。

キャンセルカルチャーにおける被害者というのは、性犯罪やセクハラなどの被害者と同様にセカンドレイプのような二次的な被害を受けるネガティブなリスクもあります。ようやくまともな生活ができるようになったところで再度トラブルに巻き込まれるとなると、そうそう容易に声を上げるわけにもいかないでしょう。

被害者や被害者を支援する人たちの動きが個別の主張ではなく、キャンセルカルチャーにつながるひとつの大きな動きとなって初めて声を上げる人もいるはずです。その間にも、問題となる事象は続き、被害者は増え続けるのです。

こうしたメカニズムを理解せずにキャンセルカルチャーに直面してしまうと、その時点で声を上げている人々だけにフォーカスして問題を矮小化して対応することになるでしょう。これでは、次々に声を上げる被害者に後手の対応を取ることになり、一次的な被害に加えて二次的・三次的な被害拡大を招くことになりかねません。

 

次に、キャンセルカルチャーの是正の第一歩として被害者への謝罪と被害者の救済があります。

ここで考えなければならないのは、まずは被害者の特定です。自ら名乗り出た直接の被害者には特定する作業は比較的容易です。そして、直接の謝罪と救済のためのプログラムが必要なのは改めて言うまでもありません。

問題は、間接的な被害者をどのように捉え、救済をどの程度まで行うのかという点です。間接的な被害者というのは、キャンセルカルチャーが発動した時点以降、世間からの批判や自分への落胆などでマイナスを受けたり、仕事や職場を失うなどして経済的金銭的な損失を受けたりした人々を言います。

こうした人々は、キャンセルカルチャーが発動するまでは実は間接的に利益(利得)を得ていたかもしれず、直接の加害者と手を組んだりいっしょに仕事をしたり、加害行為について見て見ぬふりをすることで結果的に仕事や地位を得ていたりする人が、多数含まれているのが常です。

こうした間接的な加害者(加害者というよりも利得者かもしれません)が、キャンセルカルチャー発動によって経済的社会的に失ったものがあったとして、「被害者」と定義すべきでしょうか。特に問題となりそうなのは、今後はサービスや製品を享受できなくなる顧客のなかでも、直接の加害者が取り仕切っていたブランドの主要顧客というべき人たちです。

金銭のやり取りを通じてサービスや製品を購入するだけの一般の顧客と比べて、熱狂的なファンやいわゆる上顧客とかロイヤルカスタマーと呼ばれる主要顧客とは、直接の加害者が取り仕切っていたブランドにおけるインパクトが違います。まして、上顧客だけが招待されるイベントやアリーナでの関係者席とかホール内のVIPルームなどに通されていた顧客は、そのプレステージに見合う責任をブランドと社会に対して負っていると見られても致し方ないでしょう。彼らは失墜したブランドの被害者なのでしょうか、それとも直接の加害者を暗黙の裡に助長させて間接的に利得を得ていた、いわば共犯者のような関係にあるのでしょうか。

また、一般の顧客についても被害者かどうか検討しなければなりません。特に一度限りとか数回程度しか問題となっている組織のサービスや製品を購入・利用したことがなく、被害の自覚が欠けているような人々は、自分が購入・利用したものが毀損していたり不当に高い対価を支払わされていたりしたとしても、そのことに全く気が付かないこともあるでしょう。

こうした人々も幾ばくかの被害を受けていることは確かであるとしても、被害者として名乗りを上げて損害賠償を請求するというのも、当事者の労力もかかり、面倒くさいとかやりたくないと感じる人もいるでしょう。個人情報の漏洩が発覚した時によく見られるように、直接の加害者が属した組織が把握できた一定期間の購入者や利用者に対して、和解金代わりにクーポンとか優待割引を行うことで対処するのが現実的な対応なのかもしれません。

こうしてみると、被害者の定義や範囲は自明のようでいて、必ずしも明確とは言い難いものがあります。

 

 次に考えるべきは救済策の内容です。物理的な援助や心理的な支援を行う必要があれば、そのための専門家を活用するとか専門家へのアクセスを加害者側の負担で行うということになります。同時に、多くの場合、金銭的な補償が必ず行われるでしょう。

この金銭的な補償の意味合いが問題です。すなわち、損害賠償という意味なのか、または慰謝料という意味なのかのよって、金銭的な補償を行う上で不可欠な金額の算定方式や支払額や支払方法などが異なってくるからです。

基本的な考え方として、損害賠償ならば損害の確定が必要です。ここで損害に直接的な被害に対する補償を含めるのは当然として、逸失利益を含むのかどうかは考えどころです。死亡事故における逸失利益であれば、被害者の年齢や職業などを勘案していわゆる相場が形成されていますが、キャンセルカルチャーで問題となっているケースはまだ実例が少ないが故に、相場も形成されていません。

更に、逸失利益があるならば過大に獲得した利益(本来は逸失した人が得るべき利得を別の誰かが獲得してしまったもの)もあるはずで、それは吐き出させなくてよいのかという点も検討されるべきでしょう。この過大に獲得した利益を仮に超過利得と呼ぶならば、そこには金銭だけでなく、地位(組織内だけでなく組織外も)・名誉・名声なども含まれるべきです。なぜなら、直接的に金銭として獲得されたもの以外の要素も、結局のところ、経済的な利益を得るのにより有利な要素である点は否定しがたいものだからです。

地位も名誉もある立場のほうが、仕事も資産形成もよりチャンスが大きくあることは、社会人をやっていれば誰でもわかるはずの事実でしょう。超過利得を昔から得ていれば、更に超過利得が増えるというメカニズムが働くと、それが自分の実力の為せる業と誤解する利得者も出てくるに違いありません。

このように超過利得を得てきた人は加害者ではないにしても、キャンセルカルチャーの元となった加害者の言動から間接的に利得を得てきたはずで、損害賠償とは無関係というのもおかしな話だと感じる人も多いでしょう。

キャンセルカルチャーで問題となる事象は、法的に明確に損害賠償として請求可能なものかというと、必ずしもそうとも断言できないものもあります。被害者の確定も難しく、賠償すべき損害も金額的に確定しがたいとなると、一定範囲の被害者に慰謝料を支給することで解決策とするという選択肢を、加害者側も被害者側も検討せざるを得ない状況に至ることも出てくるでしょう。

但し、この場合、損害賠償のように金額を算定することが不明確になるため、被害者側が一致団結して交渉に臨まないと加害者側の言い値に近い条件で和解に持ち込まれてしまうことも十分に危惧されます。

 

このように、キャンセルカルチャーで問題となった事象によって何らかの被害を受けた人に対して、その被害の程度に応じて何らかの補償を行うことは、現実の対応策として難度が相当高い課題であることは覚悟しなければなりません。被害者に対して、安易に救済策や補償案を提示することは厳に慎まなければなりませんが、問題が明らかになってから時間が経っても具体的なプログラムが提案されないこともまた、ある程度のスピード感が求められる状況においてダメな対応です。

そして、改めて考えなければならないことは、いかに適切に金銭的な補償を行うことができたとしても、多くの場合、被害者が心から求めている救済を実現することは難しいのではないかという点です。

性加害や恫喝や各種のハラスメントなどはトラウマとなり、いわゆる心の傷として一生涯、残り続けるでしょう。また、キャリアの可能性が失われたり、他のもっと有意義なことに振り向けたいエネルギーや時間を忘れたいことに向き合うために使わざるを得なくなったりするなど、いわゆる機会損失につながることへの補償は何もないというのも、被害者が自ら名乗り出ることを躊躇させる強い要因となるではないかと危惧されます。

こうした問題に関する議論を避けるために、金銭的な補償に議論を絞っていくのが、加害者側にとって課題解決に向けての賢い選択ということもできます。

 

更に被害者の感情を踏みにじったり無力さを感じさせたりする問題点として、加害者の謝罪や処罰が不可能である場合が少なくない点も挙げられます。キャンセルカルチャーで問題が顕在化するまでの間に長い時が経過しているために、加害者が既に亡くなっていたり第一線から引退し意思決定の権限を有していなかったりするために、一種の時効となってしまうようなものです。

そもそも、直接の加害者は忘れるものです。もとより覚えていないこともあるでしょう。なぜなら仕事や習性として日常化して言動が問題化してしまうからです。いままで普通の日常として許されていたことが、ある時を境に糾弾の対象となるのがキャンセルカルチャーの最大の特徴ですから、普通の日常を思い出すことは困難です。

直接の加害者は忘れても、被害者は忘れません。忘れないどころか、忘れようにもトラウマ化して何度も「その時のこと」が蘇ってくることもあるはずです。そして、利得者も忘れるのです。ましてや第三者は、そもそも知らないか、関心がないのです。

つまり、被害者以外は忘れていたり、気にも留めていなかったりすることが、被害者が最も強く問題解決を求めるポイントであると言えるかもしれません。

 

さて、直接の加害者については、キャンセルカルチャーで問われる言動によっては刑事罰の対象となるものもあります。パワハラやセクハラに相当する言動であっても、その程度によっては刑事罰と民事上の損害賠償請求の対象となります。

直接の加害者だけがキャンセルカルチャーで問われるのではありません。むしろ、直接の加害者の暴走を早い段階で止めることができなかったばかりか、長期にわたり助長してきたのであれば、その組織的・社会的な課題にこそ、目を向ける必要があります。だからこそ、このような問題はカルチャー(文化)の問題なのです。

少なくとも、組織的・社会的に再発防止策を講じなければならないでしょう。加害者を叩くだけでは単なる憂さ晴らしで終わってしまいます。それでは、意味がありませんし、問題がすり替わっています。

直接の加害者以外に被害の増大や長期化を助長した者たちにも、それぞれの関与の度合いに応じて罰を与えたり損害賠償の責任を負わせたりする必要があります。直接の加害者の問題行動を黙認したもの、被害者の口を封じた者、利得者(ファンやロイヤルカスタマー、納入業者、取引先、特に加害者との取引によって内部昇進などの報奨を受け取った者)などが、被害の増大や長期化を助長した者たちに該当するのは論を俟たないでしょう。

もちろん、こうして問題となる対象を拡大していくことには、反対が強いでしょう。なにしろ、こうした者たちこそ、直接の加害者以上に現時点で利得を得ており、社会的な影響力も有しており人数も多く存在しているからです。

 一方、時代とともにダメなものやタブーは変わることも、動かしがたい事実です。今後もキャンセルカルチャーが起こりうることを組織的・社会的に自覚することが本当の意味でのリスクマネジメントでしょう。通り一遍のガバナンス改革では機能しないどころか、やった気になることですぐに同様の問題を起こす危険性がありそうです。

この危険性が顕在化しないとしても、被害の増大や長期化を助長した者たちが相互批判や内部崩壊を招く姿を見せてしまい、その経緯を他山の石として社会的にキャンセルカルチャーに向き合うきっかけとなるのかもしれません。

 

以上をまとめると、組織がキャンセルカルチャーに直面した際に取り組むべき課題とは、次のようなものでしょう。

 

  問題となる事象が顕在化した時点で被害を拡大させないこと

  声を上げにくい被害者について長期的かつ広範に特定すること

  個々の被害者についての被害の態様や程度をスピーディーに確定させること

  被害者への謝罪と適切な救済策の策定

(特に金銭的な補償、金銭以外での救済プログラム、実行までの時間をむやみに長期化させないこと)

  直接の加害者について責任を追及すること

  直接の加害者を止めることができなかった組織や社会について責任を負うこと(特に利得者の扱いについて)

  今後もキャンセルカルチャーが起こりうることを組織的社会的に自覚すること

 

次に、こうした課題に対してどのような解決策がありうるのか検討することになります。キャンセルカルチャーが様々な態様を示し、将来に亘って新たな問題が発生することが十分に予見される現状で、唯一の正解があるわけではありません。本稿では、あくまでも解決に向けたアプローチを示唆できるかどうかを述べる試みに過ぎません。

 

(4)に続く

 

  作成・編集:経営支援チーム(2023105日)