藤井八冠誕生
当コラムで将棋の藤井聡太八冠について触れたのは、2016年の年末のことでした(注1)。それから、7年ほど経ち、昨日の王座戦第4局で永瀬拓矢王座に勝利した藤井聡太七冠は遂に(というか「早くも」というべきか)八冠となりました。
ちなみに、八冠というのは、日本将棋連盟が主催するプロの公式戦(注2)のうち、いわゆるタイトル戦と呼ばれる(原則的に)全プロ棋士が参加して行われるチャンピオンシップ型(タイトルホルダーであるチャンピオンに挑戦者を決める予選を勝ち抜いた挑戦者が挑むスタイル)の棋戦全てについて、そのタイトル保持者となった状態をいいます。藤井八冠はプロデビューからほぼ7年で、これまでは現在の羽生善治日本将棋連盟会長しかなしえなかったすべてのタイトルを独占するところ(当時のタイトルは7種なので羽生七冠と呼ばれた)まで上り詰めたのです。
プロ入り後、毎年一つはタイトルを獲得し続けた計算になりますが、一度獲得したタイトルを奪われてしまうと八冠というタイトルの独占状態には至りません。タイトルは奪取するよりも防衛し続けるほうが難しいとよく言われますが、その難事を藤井八冠は平然とやり続けているように見えます。それでいて、まだ21歳(羽生七冠は25歳の時)ですから、驚き以外の感情が出てきません。
こうなると、藤井八冠の才能やその伸ばし方などを巡ってきっと教育論や人材育成論などが、すでに著されているものをはるかに凌ぐ量で出てくることでしょう。
このコラムでは見方の角度を変えて、藤井八冠の活躍から、一般の人々、特にビジネスパーソンにとって、日常でも活用できる(かもしれない)ヒントを見出してみたいと思います。なお、筆者は一般のメディアの記事や日本将棋連盟のサイト情報や将棋に関する各種のサイトの情報をざっと見ている一将棋好きにすぎないことを予めお断りしておきます。
さて、藤井八冠を語る上で最初に採り上げられてきた強みに、詰め将棋の能力の高さ、そして終盤力があります。プロ棋士も参加する詰将棋解答選手権でプロ入り前の時期も含めて5連覇するなど、多分、詰め将棋に関してはトップレベルの解く能力があるはずです。単に詰め将棋が得意という以上に、詰みの型を見つける能力や詰みにつなげていく能力や詰みを振りほどく能力(詰ませない能力)など、将棋というゲームの終盤を有利に戦う能力に秀でていることは間違いありません。
プロの将棋は150~200人が鎬を削る世界ですが、どのような世界においてもその中で何らかの武器とか持ち味というものは、何もないよりはあったほうがいいでしょう。
一般の社会では、藤井八冠のように抜きん出て優れているものである必要はありません。所属する会社や部署など一定の人数からなる組織の中で、相対的に何か人とは違うものがあればよいのです。ビジネス英語の能力とかITスキルなど、それが仕事に直結するものであれば申し分ありませんが、何となく年上の人にかわいがられるとか、リモートでの話し合いを盛り上げるのが得意というものでも構いません。
特に新卒で入社した新人とか中途入社で採用されたばかりの人は、何らかの特徴を示すことができれば、そこから活躍のきっかけを得ることにつながります。ちなみに40年ほど前に筆者が新人であった時は、趣味の映画鑑賞のおかげで、社長をはじめ上司や部署が異なる諸先輩からも映画に関わる情報を聞かれることが多くなり、仕事以外のところから存在をアピールすることにつながった覚えがあります。
こうした個人の差別化というか、自分の持ち味を顕在化させることは、特に集団や組織において、活躍のチャンスを早めに得るのに必須と言えます。
将棋というゲームは、ルールが明快で途中で変わることもなく、対局者二人以外には関与する者はおらず、自分と相手の状況が全て見渡せるという、これ以上ない解りやすいゲームです。それでも、対局中は指し手の方針について予定変更を迫られたり、間違った手を指したと後悔したりする場面に直面するのが日常です。
藤井八冠を語る上で、いわゆる藤井曲線というものに言及されることがあります。序盤か遅くとも中盤から徐々に藤井八冠のほうがAIの形勢判断の評価値が良くなり、そのまま評価値の差が開いて勝利する、その経過をグラフ化したものですが、実は将棋というゲームは逆転のゲームと言われるほど逆転が普通に起こるのが常識であって、藤井曲線のように僅かでも形勢が有利なほうがそのまま順調に差を広げて勝利するというのは、むしろ例外的な勝ち方と言えるかもしれません。
藤井八冠であっても、序盤や中盤で形勢を損ねることは時にはあります。現に、今回の王座戦ではそういった流れの対局のほうが多かったのではないでしょうか。それでも、序盤や中盤で大差がつくほどには容易に崩れず、終盤で追い込まれても決して投げ出さずに、もし相手が間違えば一気に逆転するようにベストを尽くす力を、ここでは修正力と呼んでおきます。
修正力はひとつの対局のなかだけで見られるものではありません。藤井八冠は特にタイトル戦の番勝負では、同じ相手に2局連続して敗れたことがありません。一度敗れることあっても、次の対局は必ず勝っています。これもまた、極めて優れた修正力です。
こうした修正力を発揮するには、以前の発想や投入した資源(事前の研究に費やした時間やエネルギーなど)に拘らないことが不可欠です。心理学でいう投資原理を捨てるのです。これは多くの並みの人間には至難の業です。
一局の将棋において、「ベストを尽くす」の意味は多くの棋士にとっては事前準備を怠りなく行い、相手に応じた作戦をいくつか選択し、想定する局面に相手を誘導して、後は当日、健康管理を含めて万全を期して臨むことでしょう。
しかし、藤井八冠にとっては、そこまではやって当然のことであって、そこからが本当の意味での「ベストを尽くす」ことができるかどうかの別れ道です。というのも、いかに準備しても全ての手を最後(相手の玉が詰む局面)まで調べ尽くすことは不可能ですし、作戦を外されることもあるでしょう。
実際の対局において、現局面でのベストの手は何か探求することがベストであって、一手前のベストでもなければ、仮に悪手を指してしまったらその悪くなった局面での新たなベストを考えるのが、「ベストを尽くす」ことです。つまり、絶えずゼロベースで現局面を見て、それまでの経緯や流れとかここまで投入した時間や集中力に捉われずに、新たな見方を採り続けることがベストへの道なのです。
こうした意味での修正力こそ、VUCAと呼ばれて久しい社会経済状況において必須の能力です。
藤井八冠もAIを活用して事前の準備に余念がないことはよく知られていますが、修正力を実現するには、同時に捨て去る力も求められます。例えば、プレゼン資料を作成する際に、一度入れた表やグラフを捨てきれずに残してしまい、やたらに分厚い資料となり、説明十分なまま、先方の理解を得るには至らなかったというのでは失敗です。状況を見て、捨てるべきものは捨て去るという判断とその実行の重要性を忘れてはなりません。過去の投資(コスト、時間、工数、エネルギーなど)が無駄になるとしても、捨て去り見直すことが必要ならば実行するのみです。
そもそも論として、藤井八冠にとっての将棋のように、子供のころから夢中になって取り組むものがある人はとても幸運な人というべきかもしれません。大人になってから初めて夢中になって取り組むものを探すことはできるのでしょうか。なかなか都合よく見つけることはできないでしょう。
少なくとも、好奇心や探求心のかけらくらいは大人でも持ち続けていたいものです。この点は羽生会長がお手本となるかもしれません。50代の今でも、将棋への新たな取り組みに積極的で、それが結果にもつながっているように見受けられます。
一般に40歳を超え50歳ともなると好奇心や新しいものへの受容性が目立って落ちてくるそうです。新しい音楽・文学・ゲームなどに疎くなったり、新しい店に足を運んだり、未知の料理にチャレンジしたりすることがなくなると、危ない兆候が出ています。
この点、藤井八冠は当面、心配なさそうです。対局後の会見や取材でも、「まだまだ課題だらけ」「さらなる高みに挑む」とコメントしているようですから、将棋の新しい領域とか未知の魅力を開拓する好奇心や探求心は強いはずです。ただ、八冠一人では現実的には難しいかもしれず、誰か伴走者か知的刺激を及ぼす人が必要かもしれません。
こうした存在は、時にはライバルと呼ぶことがあるかもしれません。ただ、ライバルといっても勝負の上での相手というよりも、戦法や戦術、将棋の根本に関わる問題を提起するような人、もしかするとAI技術者かもしれないし、アマチュアの将棋愛好家、もしくは海外の将棋未経験者とかこれから生まれてくる世代といった人々の中から出現するかもしれません。
仮に対局相手のなかからこうした存在が出現するとすれば、まさにライバルと呼ぶにふさわしいでしょう。改めて述べますが、好奇心や探求心を持ち続けるには、通常の意味での勝負の上でのライバルは不要です。もしかすると、ライバルがいる場合は、ライバルが欠けると集中力やエネルギーが涸れてしまい、自分も新たなことに挑戦する気力がなくなるかもしれません。あくまでも、他人との比較や勝負ではなく、自分の興味・関心の赴くまま極めることが肝要です。
以上、藤井八冠の誕生を目の当たりにしながら、自分の持ち味の顕在化、修正力の日常的な発揮、好奇心・探求心の持続、という3点について考えを巡らせてみました。
【注1】
“62歳差であってもできる仕事”(2016年12月26日公開)を参照してください。
62歳差であってもできる仕事 - QMS 行政書士井田道子事務所 (qms-imo.com)
【注2】
詳しくは、日本将棋連盟のHPを参照してください。
日本将棋連盟主催棋戦一覧|日本将棋連盟 (shogi.or.jp)
作成・編集:QMS代表 井田修(2023年10月12日更新)