中小企業における人への投資(9)~まとめに代えて~
以上見てきたように、人への投資というのは、採用に始まり教育研修に経営資源を費やし、配置・異動を含めて仕事そのものが投資であると認識すべきものです。そして、職場の状況など人と仕事を取り巻く環境を整備することや、人事や組織の制度や慣行を適切に運用することも、人への投資として不可欠な要素です。
ここまでの議論を踏まえると、人への投資に関して一般に問われがちな以下のような質問については、次のように考えることができます。
まず、投資の対象は、個人なのか環境やシステムなのかと言えば、両方とも重要です。どちらを優先すべきかについて一般的な解を求めても意味がなく、自社の経営課題を解決するのにより効果的なことから取り組めばよいのです。
ときどきある質問に、人への投資は仕事とは切り離して行うべきものであって、特に留学・通信教育・集合研修などは日常の実務では学べないことこそ学ぶべきではないかというものがあります。これも一概に解があるわけではなく、個人のキャリアチェンジの契機としては、仕事とは切り離すほうがよいと思われますが、組織として変革を求めるタイミングでは実務に直結した教育研修プログラムこそ重要です。
人への投資は全員一律に平等に行うべきものとか、社員全体に公平に機会を与えるべきであるとか、社員全体のレベルアップのために行われなければならないとする見解もよく耳にします。これらは抽象論としては正しいように聞こえますが、経営上の具体的な施策としては必ずしも考慮すべき事項とはいえません。組織が行う教育研修は子女の義務教育ではありませんから、時間やコストなどの経営資源に限りがある以上、経営上の要請に応じて対象者を絞って実施することもあるのが当然です。
一方、人への投資は組織が学習する機会と費用を必ず賄うべきものだということも、時と場合によっては不適切な投資になってしまうかもしれません。というのも、個人のキャリアは組織ではなく個人の選択の問題である以上、組織としてはキャリアアップやキャリアチェンジの可能性を提示することはできても、それらを活かすかどうかは最終的には個人の選択に委ねられます。
極端な話、退職して別の仕事に就きたいと申し出ている社員を、強引に説得して会社に引き留める権利は会社にも経営者にもありません。また、会社の事業領域や経営課題から大きく外れるテーマについては、会社が学習する機会と費用を賄う必要はありません。
よくある問いのひとつに、人への投資と言ってもコストに過ぎないとか、投資のリターンがはっきりと見えないとか、投資とは言えリスクとリターンを見極めることが難しいということもあります。これらは、人への投資を個々のプログラムについて考えるのではなく、ひとつにまとめて分析しようとしている点に無理があるようです。個々のプログラムであれば、それぞれの目的や狙いがあるはずで、それらに則った成果目標もあるはずです。
例えば、若手のマネージャークラスから経営幹部(候補)を育成したいのであれば、単に座学を行うのではなく、一定の期間と費用を与えて候補者に経営課題の発見(特定)から解決までを実務及び社内外の研修プログラムの習得を併用して当たらせることで、その結果を測定することが可能となります。このようなやり方であれば、掛かる費用や時間もわかりますし、求める成果(リターン)も明確でしょう。
また、OFF-JTには限界があり現実の仕事ではあまり役に立たないので、結局のところ、最も効果的なのはOJTであるとか、人への投資の肝は採用と配属(異動)なので、教育研修にはあまり期待はできず、そのコストは無駄ではないのかといった疑念も強いものがあります。これらは、実務に偏った見方であって、教育研修や採用や環境整備などを軽視し過ぎているきらいがあります。なかには、人手不足で現場が大変な状況では教育研修にかかる時間があるのなら現場で働いてほしいという声も一部にはあるようですが、それでは本末転倒です。目先の人手不足は、むしろ仕事の制度やシステムを含めた労働環境の整備でこそ対応すべきものでしょう。
実際、現実の仕事によって鍛えられて大きく成長する人はいます。ただ、全ての社員がそういう仕事に巡り合うわけではありません。顧客や職場の違いもあれば、事業成長のタイミングやテクノロジーの発展レベルの違いもあります。仕事に追われて疲弊している人も少なくないでしょう。そこで、OFF-JTをひとつのきっかけとして自らのスキルや能力や適性を洗い直してみることも必要です。これは人への投資というよりも、人材としてのメンテナンスとして必要なことです。メンテナンスで足りないのであれば、退職や転職などを含む抜本的な投資を行うことが不可欠なのです。
ここでひとつ注意したいのは、特に社外のビジネスパーソン向けの教育サービスを活用する際に、成果を勘違いしないことです。経営者や起業家を育成するとは言え、進学重視の学習塾や資格試験予備校ではないので、経営者や起業家を輩出する人数を成果として自慢するようではMBAも塾形式の養成講座も愚かしく思われます。4月になり進学塾には今年の実績として「〇〇中学(高校、大学)に×名合格」といった表示が出ていますが、当大学(院)のMBAコース修了者から、今年は執行役員が〇名、CEOが×名就任とでもいうのはいかがなものでしょうか。求めるべき成果は、経営者や起業家になる上で必要な知識やスキルを一通り身につけることで、単に経営者や起業家になったかどうかを成果として問うわけではありません。
最後に、中小企業における人への投資に関する課題について、当コラムの第1回で見た項目を再掲してみましょう。まず、人手不足と後継者難が二大課題として指摘できます。また、人材マネジメントの取組については、働き方や人材育成に関する具体的な制度について、近年になって中小企業でも導入が広がっているものもあるが、全体としてはあまり進んでいないと言われています。特に人材育成・教育訓練については、そもそも研修を実施していない割合が高く、大企業ですら受講者割合で0~20%未満、受講日数で1~2日未満が最多となっています。現金給与総額に対する能力開発費の割合も、「0」か「0.5超~1%」が多くを占めています。
人手不足と後継者難に対する解決策というと、どうしても採用ということになりがちです。詳しくは第6回で述べましたが、とにかく応募してきた人を採用するというスタンスでは、まったく解決にならないことを肝に銘じて、バスに乗せるべき人を厳選することが必要です。
もうひとつは、人材を採用する手間とコストを人手不要で仕事を処理する仕組みを導入したり自ら工夫して作り出したりしていくことです。特に事務的な仕事は生成AIなどをちょっと用いるだけでも、相当程度に効率が上がりますし、アウトプットの質も向上します。中小企業においてはとりわけ、経営者が自らAIやITに興味を示してやってみる姿勢をみせることが重要なのです。
経営者自身がDXやAIなどをまったくわからないというのであれば、例えば、厚生労働省の人材開発支援助成金「人への投資促進コース」(注19)に自ら申請してみるといった行動を起こすべきでしょう。「高度デジタル人材訓練」「成長分野等人材訓練」「情報技術分野認定実習併用職業訓練」「定額制訓練」「自発的職業能力開発訓練」「長期教育訓練休暇等制度」などのコースがありますから、仕事をしながら、また休暇を取って学ぶことで、自らDXやITに必要な具体的スキルを習得する姿勢を打ち出すことがでます。そして、実際に自社の業務の中で活用することで、労働生産性を高めるとはどういうことなのか、経営者自らがやって見せることもできるかもしれません。
中小企業においては、人への投資の第一歩は経営者自身への投資です。そして投資の結果を自ら問うべきです。単にセミナーを受講したり経営者向けの研修会に出席したりするだけでは無意味と言わざるを得ません。そこから何を学んだのか、社員に向けて学んだことを発表するのが最低限の成果です。そして、次に取り組むべき人への投資のテーマを見つけることで、学ぶ習慣やカルチャーを生み出していくことが人的資源に乏しい中小企業にこそ求められます。
【注19】
詳しくは、以下の資料を参照してください。
作成・編集 人事戦略チーム(2024年4月23日)