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2025年冬の3冊(1)~「フランスの宗教戦争」

2025年冬の3冊(1)~「フランスの宗教戦争」

 

 この冬は歴史に関する新書を読む機会がありました。「フランスの宗教戦争」「フランス教育システムの歴史」「オットー大帝」の3冊です。そのなかで今回は「フランスの宗教戦争」(二コラ・ル・ルー著、久保田剛史訳、2023年白水社文庫クセジュ)についてご紹介したいと思います。

 

 本書はフランス近世史の専門家がユグノー戦争の経緯について概説した本です。その概要は、本書の「はじめに」で取りまとめ、全体を通じて述べられているように、次のようにまとめることができます。

 

  フランスの宗教戦争=ユグノー戦争は、カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)という「宗教を巡る」衝突である以上に、当時の人々にとっては貴族間の派閥闘争であり、国王を頂点とする君主制を揺るがす政治的混乱であった

  ユグノー戦争は1562年のヴァシーの虐殺で始まる第1次から、ユグノーに信教の自由と政治的同権を認めたナントの王令が公布される1598年の第8次までとするのが慣例だが、始まりは1560年のアンボワーズの陰謀及びフランソワ2世の死去並びにシャルル9世の即位とカトリーヌ・ド・メディシスによる摂政と考えることができる

  上記のユグノー戦争の期間にはいくつかの休戦期があり、限定的な礼拝の自由を改革派(プロテスタント)に認める和平王令が幾度か発布された

  宗教戦争は人々を驚愕させた暴力の時期であったが、同時に政治実験の場でもあった

  1572年の聖バルテルミーの虐殺が少数派(プロテスタント)撲滅のための暴力の頂点であり終焉であった

  その後は党派的な境界が曖昧になり新旧両派の混成組織ができたり旧教派が国王に対抗して武装したりするなど、政治的混乱に新たな局面がでてきた

  この戦争はフランス全土を巻き込むとともにヨーロッパ全体の国際的な紛争の一部を構成するものでもあった

  カトリックにはスペインとローマ教皇庁にスイスのカトリック諸州、プロテスタントにはイングランド・ドイツ諸侯の一部・デンマークが直接的に関与した

  フランスの隣国ネーデルラント(オランダ)も戦火に直接巻き込まれた

  この戦争(内戦)を通じて、何としても社会秩序を維持しなければならないとポリティーク派(カトリック)もモナルコマク(暴君放伐論者、プロテスタント)も考え方が次第に一致していき、平和すなわち王に対する服従こそが神の怒りを鎮め、キリスト教徒(=フランス国民)を和解させるものであるという方向に政治思想の深化が見られた

  国王による一撃(クーデター)で多くの国民が殺されることもあれば、国王が一人の国民によって暗殺されることも起きた

 

本書で扱われている内容を詳細に知ろうとすると、とても新書では扱いきれないでしょう。詳細は専門書に譲るとしても、言及されている概要だけでも注目すべき事項がいくつもあります。

例えば、ユグノー戦争はフランスの内乱であるはずなのに、関係する人物や実際の武力に外国人や外国からの傭兵などが多く登場することです。国王の王母としてカトリックとプロテスタントの調停者として振る舞おうとするカトリーヌ・ド・メディシスはイタリア人ですし、プロテスタントに大きな影響を及ぼすカルヴァンはスイスにいるままです。実際に闘う兵隊は1000人単位での騎兵や歩兵がヨーロッパ全域から集められますが、そのなかにはスイス傭兵の存在を無視できません。

ユグノー戦争だけでなく、一般にヨーロッパを舞台する紛争は現代に至るまで、国際的な政治環境の動向に直結するものです。スペイン、オランダ、デンマーク、ドイツ、イギリス、イタリアなど、宗教を含む地政学的な問題に関連するだけでなく王家間の婚姻や有力貴族の系図も広く関係します。

王朝の交代という点では、この戦争の結果としてもたらされるヴァロア家の滅亡とブルボン王朝の興隆が次の歴史につながっていきます。

ユグノー戦争中の数次にわたる争乱の度に発出された王令にも深化が見られます。最終的に出された1598年のナント王令は、パリの高等法院で登録された際には92条の本文と56の個別条項から成るものでした。既に実現されつつあった和平を追認する内容であったため、実効性があった点も重要です。

ちなみに、1563年のアンボワーズ王令はわずか10条、1570年のサン⁼ジェルマン王令は45条、1576年のボーリュー王令は63条でした。ただ、これらの王令は実効性に乏しく、なかには高等法院に登録されないものすらありました。

各次の戦争の講和時に締結され発布された王令は、次第に条文が多くなり詳細に記されるようになります。その理由として「曖昧さを避けたいという意志の表われであり、経験とともに法律が成熟してきたことでもあるが、いまや警戒心が特段に深くなってきている証拠でもあった」(本書110ページ)と本書は指摘しています。

本書には、関連する地図・家系図・年表があって理解しやすく構成されています。ただ、主要な王令についての具体的な条文が紹介されておらず、どの程度まで抽象的具体的に表現されていたのかわからなかった点は残念です。関連する王令を全てではないにしても、比較対照して抽象度や具体性がわかりそうな条文をいくつか例示してあれば、より理解しやすいものではなかったかと思われます。

こうした法令の動向と表裏一体であるのが、国家・宗教・王政などの政治に関する考え方の変遷です。端的に言えば、宗教が国家に優先するのか、国家が宗教に優先するのか、という問いに対して、次第に後者に傾くのが宗教戦争のプロセスです。本書の表現を借りれば、「フランス王政は、スペイン王やドイツ諸侯やイングランド女王とは異なり、特定の宗派を選ばないことにしたのである。王政は宗教的な議論を放棄し、その活動を世俗的な領域に限定したのである」(本書42ページ)ということになります。

ここに表れている考え方は、今日私たちが政教分離と呼ぶものでしょう。これは、本書で描かれる宗教戦争のプロセスから生みだされてきており、カトリックにせよプロテスタントにせよ、身近な人々が数多く殺された状況にあって、平和や社会的安定が希求されたなかで当時の人々が編み出したものなのです。

 

さて、ユグノー戦争の後、アンリ4世の暗殺から貴族たちの反乱を経て、次第に社会の安定は進み、17世紀後半にはルイ14世の絶対王政へと王権の強化が進む時代となります。

ユグノー戦争とほぼ同時期の日本では、1560年に桶狭間の戦いが起こり1600年には関ヶ原の戦いが起こるなど、戦国時代後半から安土桃山時代でした。フランスほどではないかもしれませんが、国内には戦乱が続きつつもある程度の安定が得られた時期ですが、江戸時代のように安定した社会となるにはまだ時間を要する時機でした。

宗教と戦争との関連で言えば、戦国時代には、一向一揆と戦国大名との対立並びに信長による延暦寺焼き討ちや石山本願寺との長期的な抗争などがあります。これらは宗教戦争というよりも、世俗の政治的対立の当事者のひとつとして宗教勢力(同じ宗教を軸とする政治勢力)が室町幕府及び戦国大名などと合従連衡を繰り返すものです。見ようによっては、聖バルテルミーの虐殺が長島一向一揆を信長が殲滅した戦いに相当するのかもしれません。

秀吉や家康以降の徳川幕府とキリスト教の関係も含めて宗教と政治(統治)との関係を考えてみると、政治が優先して宗教は統治の一要素に過ぎない体制が続きます。

本書を一読して思うのは、宗教戦争にさまざまな要因が絡んで長期化するという点では、中東紛争を想起させる点です。同時に、ヨーロッパの長期的な紛争という点では、ウクライナ問題を忘れることはできません。

単に宗教だけとか安全保障だけが問題であれば交渉で解決することも可能な問題も、国際的な関係、歴史的な経緯、法的な課題、個人的な人間関係などの複合的な要因が重なると、容易に解決することができないのは、時代が移り変わっても対応できないままです。武力に依らずに解決することを諦めてはいけないのですが、現実的には政治の深化が確かに見られなければ難しいのでしょう。

 

 (2)に続く 

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(202518日更新)