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2025年冬の3冊(3)~「オットー大帝~辺境の戦士から『神聖ローマ帝国』樹立者へ」

2025年冬の3冊(3)~「オットー大帝~辺境の戦士から『神聖ローマ帝国』樹立者へ」

 

さて、3冊目に採り上げるのは、「オットー大帝~辺境の戦士から『神聖ローマ帝国』樹立者へ」(三佐川亮宏著、2023年、中央公論社刊、中公新書)です。

事象を中心に歴史を語る「フランスの宗教戦争」、テーマと時代で通史的に語る「フランス教育システムの歴史」に対して、本書は西洋中世史上いわゆる神聖ローマ帝国を作り出し、単に皇帝ではなく大帝とまで呼ばれることになったリウドルフィング・オットー家のオットー1世の歴史を語るものです。

こうした書籍の場合、歴史を語る上で何らかの文献史料や考古学的な事物が不可欠です。本書はリウトプランド『報復の書』・アーダルベルト『レーギノ年代記続編』・ヴィドゥキント『ザクセン人の事績』・ティートマル『年代記』を依って立つ史料として用いてオットー1世の事績を述べます。

 

まず、これらの文献資料について紹介しましょう。

リウトプランド『報復の書』は、920年ごろにランゴバルド王国(現在のイタリア)のパヴィーアに生まれ、国王のユーグとベレンガーリオ2世に仕えた後にオットー1世の宮廷に亡命し、後にクレモナ司教になるリウトプランドが、皇帝カール3世の死去(888年)の頃からコンスタンティノープルに皇帝の使節として派遣される(950年)までを描いています。執筆の意図は明快で、ベンガーリオ2世及びその妻ウィッラに対する私怨です。文章は、ギリシア語古典文学から古代・中世のキリスト教作品まで該博な知識と洗練された修辞的表現などをこれ見よがしの自己顕示欲の赴くままに表現したものだそうです(本書133135ページ及び293ページの要約)。リウトプランドは『報復の書』だけでなく、オットー1世と対立するローマ教皇ヨハネス2世を非難するために書かれた『オットー史』や、ビザンツ皇帝ニケファロスとの婚姻同盟の実現という皇帝オットー1世から託されたミッションを実現できなかった『コンスタンティノープル使節記』も、当事者として記述しています(本書200251及び293ページの要約)。

アーダルベルト『レーギノ年代記続編』は、920年代後半にロートリンゲンで生まれ、950年代にオットー1世の宮廷で書記として活躍した後にトリーアの聖マクシミヌス修道院に入り、961年から翌年にかけてロシア(キエフ大公国)に赴きカトリックの伝道に当たった(が成果には至らなかった)後、ヴァイセンブルク修道院の院長となったアーダルベルトが、ブリュム修道院の院長レーギノの著した『年代記』の続編として907967年の項を匿名で執筆したものです。後年の歴史研究から、編年体の無味乾燥に事件を羅列していく文体がロシア伝道の箇所だけ感情豊かに描かれていることから、執筆者をアーダルベルトと特定した有力な根拠ともなっています(本書203205及び293ページの要約)

ヴィドゥキント『ザクセン人の事績』は、925年頃に生まれ、ヴェーザー川流域のコルヴァイ修道院で修道士として生きたヴィドゥキントが、ザクセン人の伝説的な起源からオットー1世の死去までを英雄叙事詩的な文体で劇的に物語ります。リウドルフィング家とザクセン人の歴史を3巻で叙述しています。第1巻はオットー1世の父であるハインリヒ1世の時代、第2巻と第3巻はオットー1世の時代です。それぞれの第1級史料として扱われていますが、口承社会であった当時の宮廷において国王の遺言をめぐる信憑性問題や皇帝戴冠の記述及びマクデブルク問題(大司教座の新設をめぐる議論)への言及がないことなど、歴史学上の論議を呼ぶ点が多々あるそうです(本書177179及び293ページ)

ティートマル『年代記』は、975年または976年に生まれ、エルベ川の支流ウンストルート川沿いのメールセブルクの第4代司教に任命されて、司教座の再建に取り組んだティートマルが、5代にわたるオットー朝の君主の事績をメールセブルク司教座の盛衰とともに描いたもので、ハインリヒ1世やオットー1世の叙述は主にヴィドゥキント『ザクセン人の事績』に依っています。その中で、スラブ系民族の信仰や習俗及びスラブ系言語の難しさなどについても具体的に記述しています(本書242246及び293ページ)

 

本書が依拠するこれらの文献は、オットー大帝について記述する数少ない同時代の史料です。ちなみに、ほぼ同じ頃の日本では、もともとあった漢文体の公式書類に加えて、漢詩や和歌を作ってやり取りしたり、源氏物語や枕草子を始めとする王朝文学もあり、漢字から変化したと思われる仮名文字が定着するなど、少なくとも当時の上流階級(皇族や貴族たち)では、自ら文字を読み書きしてコミュニケーションを取るのが当然でした。

当時の歴史書というと、既に日本書紀や古事記の時代を経て、六国史や「日本紀略」「類聚国史」「扶桑略記」などが著されます。また、歴史書というよりも同時代の風聞やストーリーを伝える「栄花物語」や三鏡なども史料的な価値があります。オットー大帝とほぼ同時代である平安時代の日本における史料といえば、天皇自身の日記として宇多天皇の「寛平御記」、醍醐天皇の「延喜御記」、村上天皇の「天暦御記」などがあり、有力貴族の日記では藤原道長の「御堂関白記」を始めとして藤原実資の「小右記」、藤原行成の「権記」、平親信の「親信卿記」、源経頼の「左経記」などがあります。また、女性の日記も「紫式部日記」「和泉式部日記」「蜻蛉日記」「更級日記」などがあります。私的な日記ではなく公式な記録としては例えば「公卿補任」であったり、法令集として「令義解」「令集解」や三大格式などもあったりします。このほかに公的にも私的にも和歌集などもあり、一定の史料的価値があります。

西洋の歴史でみても、既に古代ローマの時代に「ガリア戦記」「内乱記」を自ら記したガイウス・ユリウス・カエサルがいたり、「自省録」を著した皇帝マルクス・アウレリウスがいたりして、最高権力者やそれに近しい人々が自らものを書くということはさほど珍しくはありませんし、その書き記されたものは当事者が自らの言葉で語る一次史料として残っているのです。

一方、オットー大帝は、ザクセン語しか喋れないわけではなかったかもしれませんが、自ら何かを書き残すことはなかったようです。本書で描かれる世界では、王族といえどもイリテレイト(文字の読み書きができない)でマルチリンガル(複数の言語を喋ることができる)というのはよくあったようです。

異なる民族(王族)の間で婚姻による同盟関係が形成されると、それぞれの宮廷で異なる言語を操る必要が出てくるでしょう。また、皇帝や国王に任じられるのは教皇や司教によることからもわかるように、カトリック教会との関係を抜きに政治が行われることがありえないため、キリスト教会の言語であるラテン語を読み書きできる人が皇帝や国王の側にいることは必要不可欠でした。自分の兄弟など一族の者が修道士や司教となって、教会とのコミュニケーションを実現する役割を果たすことになります。

本書はオットー1世の事績を辿りますが、そのプロセスで当時の交渉術と契約のありかたについて、筆者は特に興味を持ちました。

 

中世史家G・アルトホフの「紛争解決論」によれば、統治システムの制度化、客観化がなお未成で、文字文化も未発達であったこの時代、社会秩序の毀損を法によって修復することは、まだ部分的にしか実現されていない。最も重視されたのは、利害対立をまず「密室」での紛争当事者間の合意(コンセ)形成(ンサス)によって調整、統御し、次いで得られた成果を劇場的機能を帯びた「公の場」(王国・宮廷会議、教会会議)において、儀礼、象徴、演出、身振りを用いて可視的にデモンストレーションするという解決法であった。(本書101ページより)

 

 現代でも交渉術と言えば、直接会ってコミュニケーションを取ることが重視されるでしょう。もちろん、書面でのやりとりやメールや電話などを通じての話し合いも不可欠ですが、難しいテーマや多くの関係者の利害に関わることになるほど、国際的な会議や機関での公式・非公式な合意形成プロセスが求められます。そこでは直接会って公式・非公式に話し合うことが必須です。

 

文字文化の未発達な口承社会では、象徴的な身振りを交えて可視化されたパフォーマンスに重きが置かれる。裸足で罪の赦しを請い憐憫の情に訴えるのも、この時代の象徴的コミュニケーションに典型的な服従儀礼である。叙任権闘争のピークを画する「カノッサの屈辱」(1077年)を想起されたい。主人に対し一度は背いた者でも、公の場で贖罪の衣装を身に纏って裸足でひれ伏し、落涙しつつ自らの罪を悔悟することで服従の証しを立てるならば、赦されるのが紛争解決における原則である。(本書109110ページより)

 

 現代でも、どのような服装(ドレスかスーツか?ネクタイの色や柄は?帽子は?靴は?手袋は?)を身につけて人々の眼前に姿を現すのかということは、そこから何か意図を読み取ろうとしてさまざまな分析が行われることになります。特に政治的なメッセージは、服装や表情や動作から読み取ることができると考えられています。時には、パレードやバルコニーに出現する(または出現しない)行為自体が重大な意味を持つこともあります。

 

当時書き言葉としてのラテン語を操ることができたのは、ほんの一握りの聖職者に限られる。俗人の大半は読み書きができず、文字文化とは無縁ではないものの、主として口承文化の世界に生きていた。(中略)勇猛にして敬虔、畏怖と尊敬の双方を兼ね備えた理想的支配者像の描写は見事である。しかし、それが定型的な賛辞を超えて、どこまでオットーの実像を正確に伝えているかは定かではない。(中略)

リウトプランドによるハインリヒの描写は、「才能と機知に富み、助言において賢明、その容貌の美麗さのゆえに魅力的で、慎重な眼差しの中に穏やかさを含む方であった」(『報復の書』第415章)となる。典雅な外見は両者とも一致する。(本書112113ページ)

 

 この当時ラテン語ができるのは聖職者などの限られた人々ですが、その表現はラテン語の書物から借用したようなものが多く、後世の人間が知りたい写実的な姿で皇帝や王族を描いているわけではない点に、史料を読む際に十分に注意しなければならないのです。

 対象である皇帝や国王を直接知っているはずの書き手だからといって、ジャーナリストのように正確に事実を伝えることに価値を見出しているわけではありません。これらの史料を書いた人たちのそれぞれの個別の事情に応じて、何らかの政治的社会的なポジションに立って、自らに有利なようにオットー1世のことを伝えるに過ぎません。

 

書き言葉としてのラテン語を操ることができたのは、当時は一部の聖職者に限られる。国王にとって、彼らの存在はキリスト教の様々な典礼の遂行者としてのみならず、平時の行政における文書作成者や財産管理者、あるいは政策助言者、各種の使節として不可欠であった。しかも、生涯独身を旨とする聖職者の場合、封建的主従関係で結ばれた世俗貴族とは異なり、国王が授与した官職・所領・権益が世襲によって国王の手から失われるしまう危険も回避できる。さらに、王国全域に及ぶネットワークは、王権を多方面で持続的かつ安定的に支えるのみならず、前記の王国統治の二重構造に風穴を開け、全国規模での直接的統治体制の確立を実現する可能性を秘めていたのである。(本書187189ページ)

 

 皇帝や国王の事績を歴史として伝えるということは、同時に、現代で言えば行政官として行政の長を事務処理面で支える役割も果たさなければならない立場でもあったのです。そのため、時には司法や行政に関わる文書、それも極めて政治的な文書を作成することを求められることもあります。

 

116日、サン・ピエトロ教会において教会会議が開催された。事実上のヨハネス罷免裁判である。会議の場ではリウトプランドが皇帝の通訳の任を担った。(中略)公式の議事録は伝存しておらず、リウトプランドの党派的党派的な文書が唯一の史料である。出席した司教は、ローマと周辺の25名をはじめとして計40名以上にも及んだ。

不在の教皇に向けた数々の非難――教会法に反する聖務執行、金銭を得ての叙階、偽誓、寡婦・父の愛妾との姦通、狩猟への耽溺、助祭枢機卿の去勢と殺害、武器の携行、サイコロ遊びでローマの異教の神々の名を叫んだこと等々――が読み上げられ、出席者はそれが事実であることを一致して認めた。併せて、申し開きのため裁判の場に姿を現すように教皇に要請する使者を遣わすこととなった。(本書219220ページ)

 

 こうした記述を読むと、歴史の現場にいた人が記録した文書であったことがわかります。もちろん、その内容は極めて政治的なメッセージで、文字通りに受け取ることはできませんが、書いた人の政治的なポジションを認識したうえで原史料を扱うことは可能です。

本書はそうして書かれたオットー大帝に纏わる歴史を語るものです。

 

作成・編集:QMS 代表 井田修(2025131日更新)